溝鼠-235泣くなよ [現代小説ー灯篭花(ほおずき)]

バスで行こうと思ったが、どうも億劫だ。それでタクシーにした。
車に乗ってからも、どうも気が乗らない。行きたくないとの気持で一杯だった。だが、一度は顔を出さなければならない。嫌々ながらの見舞いである。
後部座席に座り、腰を低く沈め、ただ、ぼーっとしながら空を見上げたり人の往来に目を遣っていた。
ふと思った。自分は、糖尿だ、心臓だ、腎臓だといろいろな病気を抱え、何とかこの齢まで生き永らえてきた。
それに引き換え、彼奴は、若い頃から病気一つせず元気に過ごしてきた。
あの元気な彼奴が一気に倒れた。彼奴も人間だと思った。
そんなことを考えているうちに車は、H医科大学病院へ到着した。
病室には勝子がいるものと思ったが、いなかった。
道男がベッドで眠っていた。顔が少し小さくなったように思えた。
声を掛けると目を開けた。虚ろな目でじっと定男の顔を見ている。
「大丈夫か、元気出せよ」
定男が、そう声を掛けると、突然、道男が、喉の奥から唸るような声を出し、みるみるうちに両目に涙を浮かべ、その涙が左の目頭から流れ落ちた。
「きっと、よくなる。頑張れよ」
道男がじっと天井を凝視している。
定男が道男の目頭をテッシュでそっと拭った。
「泣くなよ・・・」
定男の声が少し震えた。
道男の後ろに立っていた杏子が、道男の傍らから身を乗り出し、そして少し前屈みになりながら
「道男さん、大丈夫。元気になるわよ。リハビリー頑張ってね」
そういうと道男が、微かに顎を引いた。
定男と杏子が目を合わせ、杏子が定男に微笑んだ。
定男は、ただ、じっと道男の顔を見ている。

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