現代小説ー灯篭花(ほうずき) ブログトップ
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吉次は頭が混乱したー(27) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]

たしか十五、六本あたったはずだ。毎年、お盆が近づくころには、萼が鮮やかな赤に染まり一際目立つ姿になる。それが一本も残らず根こそぎ抜かれていた。倫子と光一の姿が目に浮かんだ。俺が大切にしているものを一つ一つ奪い取るつもりだ。吉次は怒りが込み上げてきた。それと同時に悲しくなった。涙が頬を伝って流れた。昨日まで生き生きとしていたほおずきの姿が跡形もない。その光景を茫然と眺めていた。自然と心の中で念仏を唱えていた。すると込み上げていた怒りや悲しみが徐々に静まった。
『それまでして俺の財産を欲しいのか。欲しいならくれてやる』吉次は、どうにでもなれと思った。
出掛ける用意をして倫子が二階から降りてきた。玄関先から大きな声がした。
「爺ちゃん、朝食の用意してあるから」
倫子の声を聞いて吉次が反射的に大きな声を張り上げた。
「庭のほおずき抜いたのか」
「知らないや・・・」
倫子が庭に回ってきてほおずきの植えてあった場所を覗きこんでいた。
「盗まれたんだべさ」
「誰れがこんなもの盗む」
「知らないや」
倫子は、そう言って吉次に背を向け出掛けて行った。
庄助に電話を入れた。庄助は、昨日の酒がまだ利いているのか、ろれつの回らない声で電話にでた。
吉次は、温泉に庄助を誘った。庄助は二つ返事で了解した。いつもの通り11時のバスに乗ることにした。
11時まで時間があった。庭を眺めていた。この年まで毎年、お盆には墓へ欠かさず持参したほおずきが無くなった。初めてのことである。先祖に申し訳ない気持ちで一杯であった。
電話が鳴っている。咄嗟に庄助からだと思った。具合が悪くて行けないとの連絡かと思い受話器を直ぐに取った。
「叔父さん、金蔵です。昨夜は済まなかった。謝ります」
吉次は、言葉が暫く出てこなかった。
「叔父さん・・・、叔父さん・・・勘弁してください。悪気があってあんなこと言ったんじゃないんだ。倫ちゃんに頼まれて、それで叔父さんの気持ちを考えずに言ってしまったんだ。勘弁してください」
吉次は、金蔵の言葉を聞いてあいつ等が金蔵に頼まなければこんなことにはならなかったはずだと思った。
「いや、お前が悪いんじゃない。倫子と光一だ。欲に目が眩んで親の気持ちも考えずあんなことを言いやがって」
「本当に済まないと思っているよ」
吉次は、3人がすべて段取りを決めて俺に掛かって来たと思った。
「もし、あそこで俺が良いと言ったらどうするつもりでいた」
「もう良いよ」
「いや、聞かせてくれ・・・」
「俺と倫ちゃんと光一さんの三人で長浜市の公証人役場へ行って遺言書を叔父さんに書いてもらうことにしてたんだ」
吉次は、あいた口が塞がらなかった。
「そこまでやるつもりでいたのか・・・」
「だから、謝っているんだ」
吉次は、電話を切った。
すべて三人で仕組んだことだ。
吉次は、頭が混乱した。珠子の顔が目に浮かんだ。こういう時に珠子が居たならと吉次は思った。

ほおずきが一本残らす無くなっていたー(26) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]

「あそこは幹線道路だぁ、夜は特に危ないよ。この間も事故があったよ。麹町でトンネルを掘削しているんで、あそこから草間方面に向かうトラックが多いから気を付けなきゃ。」
大将は、焼いている焼き鳥の煙が目に入るのか目を細め吉次に言った。
吉次は注がれた酒を一気に飲んだ。その酒が胃の中に流れ込んで行くのがわかった。酒は鎮静剤のような効果を発揮し吉次の心の動揺を沈めた。
「この時間にくるのは珍しいな」
午後の八時を過ぎていた。
「お前こそ、こんな時間まで飲んでいるなんて・・・どうした」
「何でもねぇ」
庄助がそう言ってため息を一つした。庄助はいつもと違い少し荒れているようにみえた。
吉次は、庄助に何かあったと思った。
「喧嘩でもしたか」吉次がそう言うと庄助が首を横に振った。
「何でもねぇ」庄助が目の前の皿に残っていたするめの足を一本つまみそれを口に入れた。
「おめぇ、入れ歯じゃないか」
「食えねえことはねえ」
庄助はぶっきらぼうに言った。いつもの陽気な庄助ではなかった。大将が吉次に向かって首を横に二三度振った。「荒れているから話すな」という合図である。
吉次は手酌で二杯目に口を付けた。
「何か焼くかい」大将が言った。
「ああ、あまり堅くないものがいいな」
「鯖のみそ煮があるが」
「ああ、それでいい」
庄助が焼酎の入ったコップをカンターの上でくるりくるりと少しずつ回転させさせている。だいぶ酔っているようで体が時々左右に揺れる。何か思い詰めているようだ。頭の中もコップのように何かが回転しているようだ。
「俺なぁ・・・いま飛び出してきたんだ」吉次が言った。
庄助が顔を上げた。
「そうか」
「お前も同じだろう」
庄助が頷いた。
「何があった」と二人が同時に言った。
二人は苦笑いをした。
「吉爺がこんな時間に『とんこ』に姿を表すなんては珍しいからなあ」
「そうだあ」
「ダンプに轢かれそうになるなんて・・・どうした」
庄助がカウンターを拳で叩いた。
「大将、水がない。水をくれ・・・」
コップに三分の二ほどの焼酎を入れ大きな声で大将に言った。
庄助の体がさらに左右に揺れ前後にも揺れはじめ今にも椅子から落ちそうになっている。
「庄助、帰ろう」
庄助の額が今にもカンウターにくっつきそうになっている。
「珍しく酔っているなぁ」
「入ってくるなり、焼酎の四合びんを一本出せって、最初の一杯は水で割らすに飲んだよ」
「よっぽど、癪に障ることがあったんだなあ」
庄助がカウンターに伏して寝込んでしまった。
吉次は庄助の横顔をじっと見詰めていた。庄助には一体何があったのか。吉次には、何となく思い当たるところがあった。
庄助は、嫁の憲子とうまく行っていなかった。普段はあまり不平を言わない庄助が今日はその糸が切れたのか。
「何か訳を話したかい」
大将に訊いた。
かみさんが大将の横から顔を出して「馬鹿者って何度も言ってたよ」
「馬鹿者か・・・」
「理由は分からんが・・」
吉次は寝込んでしまった庄助の横顔を見てこいつもいろいろ苦労してるんだとしみじみ思った。
時計が一〇時近くになっていた。吉次の気持ちは既に平静を取り戻していた。
吉次はタクシーを呼んでもらい庄助を家まで届けそれから家に帰った。九月の初旬とはいえ寒さが身にこたえた。
その夜は、なかなか寝付けなかった。布団の中で金蔵の言った言葉を思い出していた。
「80歳になったんだろう。そろそろ遺言書を書き残して置く歳でないかい」
吉次は、俺も80かと思うとなんだか侘びしくなった。80歳は傘寿である。人生での一つの節目だ。これからも元気でいたいがこれまで以上に気力も体力も急速に落ちるのは目に見えている。金蔵の言うとおり物事の分別が分かるうちに身の回りの整理をする必要があると思った。
吉次は金蔵を馬鹿呼ばわりしたことを悔いた。
翌朝、ベランダのカーテンを開けると植えてあったほおずきが一本残らず無くなっていた。

唇と手が小刻みに震えていたー(25) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]

「お前らが共稼ぎ出来たのは、俺や婆さんがいたからだろう。それに子供の面倒をみたのも俺たちだ」
「爺ちゃん、そのぐらいのこと私たちで幾らでも出来たわよ」
「出来たらなぜ俺たちと一緒になった」
「爺ちゃんたちの将来のことを考えて一緒になったでしょう」
吉次は、目の前にある焼酎の入ったコップを倫子に投げつけてやりたかった。
吉次は倫子の腹のうちは見えていた。最初から二人は、結婚しても暫くの間、共働きをしなければ生活できない。
子供が生まれても面倒をみる者がいない。
それなら早めに同居をして面倒を看てもらった方が得と判断してのことだ。珠子はそれを見抜いていた。一度は、同居することに反対したが孫の顔を見てからその情にほだされ祖母として無視するわけにもいかず承諾したのだ。
「叔父さんの気持ちわからないでもないが、80歳だ。それに婆ちゃんもあんな状態だし,杏ちゃんも婆さんの面倒を看ないと言うから連れて来たんだ。倫ちゃんがすべてを背負うことになったんだ。」
「杏子が婆さんの面倒を看ないと言ったのか。倫子、本当か・・・」
倫子は、鋭い目で吉次の顔を見ながら
「杏子は、向こうの親の面倒を看なければならないでしょう」
吉次もそのことは分かっている。だが、杏子の口から珠子の面倒を看ないといったことを聞いたことがない。
倫子は、金蔵に嘘をついたなと思った。
「嘘をつくな」
吉次は大きな声で倫子を怒鳴りつけた。
「嘘じゃないわよ」
金蔵が仲裁に入った。
「叔父さん、いずれは倫ちゃん達の世話になるんだ。そのあたりを良く考えて見てくれや」
「お前が、どうして我々の話に入るんだ」
「倫ちゃんに頼まれたんで」
「馬鹿もの・・・」
仲裁に入った金蔵がえらいとばっちりをくった。

吉次は珠子の顔が浮かんだ。これ以上話し合うことはないと思い腰を上げた。
「どこへゆくの」倫子がヒステリックに怒鳴った。
「帰る」吉次はそれだけ言って玄関をでようとした。
「爺ちゃん、婆さんの面倒は看ないからね」
吉次はドアを思い切り閉めた。頭が混乱していた。

表通りへでると人通りの少なくなった歩道をぼんやりとした街路灯の明かりが路上を照れしていた。吉次の足は自然と港の近くの居酒屋「とんこ」へ向いていた。突然自動車のブレーキの音がして大きな声がした。
「馬鹿野郎。どこ見てる」
交差点の信号が赤であった。それを知らずに渡ろうとした。もう少しで左手からきたダンプに轢かれそうになった。吉次は「はっ」と
我に返った。心臓が激しく鼓動していた。その鼓動は暫く続いていた。
気が付くと居酒屋「とんこ」の前に立っていた。暖簾を分けて中へ入ると客はまばらであった。「吉爺」と声をかけた男がいた。
庄助であった。
「どうした。一人で珍しいな」
「ああ:」それ以上の言葉が出なかった。
庄助の横に腰を下ろした。
「酒か:」
庄助がカウンターの中の大将に大きな声で言った。
「銚子一本」酒に強い庄助が珍しく酔っているようだ。
「あいよ」かみさんが返事をした。
「どうした。珍しいな」
「今そこで車に轢かれそうになった」
「あぶねえなぁ」
「飲んできたのか:」
「飲んでねぇ」
「ぬる燗だよ」かみさんが銚子とイカの塩辛の突きだしを吉次の前に置いた。
庄助が吉次の盃に酒を注ぎ込んだ。
「そこの交差点か」
「ああ」
吉次が口元にその盃を運んだ時、唇と手が小刻みに震えていた。

倫子の言葉が吉次の胸に刺さったー(24) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]

杏子は、吉次をこれまでにした理由を知りたかった。
「爺ちゃん、もっと詳しく話してよ。それでなければ力になれないわよ」
吉次は、一週間前の出来事を話した。
八月の末ともなると夜風は涼しさを通り越し肌寒くなっていた。
午後の七時を少し廻った頃で外は薄暗くなっていた。吉次が居間でテレビの野球中継を見ていると二階から倫子が下りてきた。
「爺ちゃん、金蔵さんから電話があって話があるから来てくれって」
吉次は先ほど電話があったのを親子電話で知っていた。
金蔵は吉次の姉の子供である。
「話ってなんだ」
「知らない」
「何の話か聞かなかったのか」
「爺ちゃんに話があるって。そういって直ぐに電話を切ったよ」
「俺に直接電話すりゃいいのに」
「何かお願いがあるらしいの、直接会って話したいって」
「お願いなら、自分から来るのが筋じゃないか」
吉次が渋い顔をした。
「金の話は駄目だぞ」
それを聞いて倫子は笑った。
甥の金蔵は町外れの町営住宅に住んでいた。一度結婚したがギャンブル好きの金蔵に愛想をつかし女は出て行った。仕事が休みのときは一日中パチンコをしている。競馬が始まるとわざわざ二時間半ほどかけて草間市の場外馬券売り場まで足を運ぶ。それほど競馬が好きで夏冬のボーナスのすべてを競馬に注ぎ込んでいた。
幸か不幸か子供がいなく金蔵も女に束縛されるのが嫌いな性質で再婚の話もあったがその気がなくいつの間にか五六歳になっていた。
「暗くなってきたし、金蔵さんのところまで送って行くよ」
「そうか、すまんな」
倫子が二階の光一に声を掛けた。光一が二階から下りてくると
「爺ちゃん、送って行くよ」
「散歩がてら私も乗って行く」倫子が嬉しそうに言った。
吉次は、金蔵が俺に話があるとは珍しいことだと思った。
吉次は、金蔵に前からギャンブルは止めろと言ってきた。金蔵はその言葉に耳を貸さなかった。
その金蔵が話があるという。どのような要件か。吉次は車の中で色々と思い巡らした。ギャンブルでサラ金から借金をして金を貸してくれと言うのかそれとも縁談話でもあって所帯を持ちたいというのかあれこれ考えてみたが分からなかった。
車の中で吉次は無言であった。
間もなく町営住宅が見えてきた。同じつくりの住宅の窓から電灯の光が見えた。
金蔵の家は旧町営住宅のほうで家賃も最近出来た町営住宅よりも少し安く入る事が出来た。新しい住宅には風呂がついているが旧住宅には風呂がなくその分安い家賃で入居できた。築二十五年は経っておりそろそろ建て替えの時期に入っていた。
車は四棟続きの一番端に建っている道路際に止まった。
「ここか:、よく知っているな」吉次は光一に言った。
「二、三回来たことがあるなあ」倫子に向かって光一が言った。
「以前、正月や神社のお祭りの時に婆ちゃんが金蔵さんは独り身だからと言って赤飯や煮物それに正月にはおせち料理を持って行ったでしょう」
「そうか:」
吉次にはその記憶がなかった。
金蔵の玄関先に立つとカップラーメンなどインスタント物が入ったゴミ袋が散乱していた。吉次が大きな声で呼んだ。
「金蔵いるか」
返事がなかった。今度はドアを二度ほど叩いた。すると中から声がした。
ドアが開き金蔵は寝ていたのか寝ぼけ顔であった。
「寝ていたか:」
「ああ、一杯飲んだらいい気分になってつい寝込んでしまった」
そう言って倫子と光一に気付き
「二人とも入れよ」金蔵は玄関のドアを広く開けた。
家の中は独身のせいか散らかり放題で異臭が漂っていた。
「よく蛆虫がわかないな。少しは掃除をしたらどうだ」
「ああ、これでも一週間に一度は片付けているよ」
金蔵はそう言ってにやりと笑った。
吉次は座る気になれなかったが進められた薄汚い座布団に坐った。
倫子と光一は今にも壊れそうな長椅子に腰を下ろした。
「インスタントコヒーならあるが飲むかい」
「何にもいらねえ。話ってなんだ。金か・・」
吉次は言われえる前に断わろうと思っていた。
「焼酎ならあるよ。やるかい」
「俺は飲まねえ」
「倫ちゃん、コーヒ―飲んでくれよ」
光一はただ笑っていた。
金蔵は先ほど飲み残したコップに焼酎を足しそれに口を付けた。
「話って何だ」吉次はどうせ金の無心だろうと思った。
「実は、叔父さんもそろそろ年だし体が動く前に家と土地を倫ちゃん達に譲ったらどうかと思ってね」金蔵はそういって倫子のほうをチラッと見た。
倫子も光一も平然としていた。
吉次は金蔵の次の言葉を待った。
「叔父さん、年齢を考えてみろよ。八〇歳になったんだろう。
そろそろ遺言書を書き残して置く歳でないかい」

吉次は一瞬胸が張り裂けるような気持ちになった。どうしてこの甥っ子にそのようなことをいわれなければならないのか吉次は倫子に目をやった。倫子は俯いていた。
「倫子、おまえら二人して仕組んだのか」
「そんな:仕組んだなんて私達が幾ら言っても爺ちゃんが分らないから」
「何が分からないだ。お前らのほうが俺の気持ちを分かっちゃいない」吉次は出来るだけ冷静にと静かに言ったつもりだが語気は鋭かった。
「話を聞いたら杏ちゃんは、家と土地については相続を放棄して倫ちゃんに譲ると言っているそうだが」
「杏子が勝手に言っていることだ。俺は知らん」
吉次は珠子が入院している。そのことが頭にあった。
「いずれにしても叔父さんが死んだら家と土地は倫ちゃんのものになるなら早めに名義変更しても良いんじゃないかい」
「だから誰が倫子に譲ると言った。俺はやるとは言ってないぞ」
金蔵は倫子夫婦のほうに顔を向けた。これじゃ話にならないといった顔をした。吉次にしてみれば自分と珠子が作り上げた財産だ。甥っ子にあれこれと指図されることなどない。
「爺ちゃん、婆さんの面倒を看ているのは誰だと思っているの」
倫子のこの言葉が吉次の胸に刺さった。何を言っていると一喝してやりたかった。

吉次の目に涙がうっすらとー(23) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]


母の珠子が杏子のもとにいたのは、四年と三か月ほどであった。その間、倫子は来るたびに涙して帰っていった。
四年という歳月は、あっという間に過ぎて去った。
吉次は、傘寿を迎えた。母の珠子は、77歳となった。
久さしぶりに倫子から電話があった。
「分かっているの。爺ちゃん今年80歳よ」
杏子は、母の珠子の歳を数えていると父の吉次が80歳になったことぐらいは知っていた。
「傘寿のお祝いでもするの」
「そうじゃなくて。爺ちゃん歳だし、あんたの所まで行くのはもう無理だというの」
「しょっちゅう来るのは難しいと思うけど、光一さんの車で、たまに顔をだしたらどうなの」
「家の旦那も忙しくて、仕事が仕事だから疲れがたまっていてそんな遠いところまで運転できないでしょう」
「和夫か園子に頼めないの」
「子供たちは、それぞれ生活があるから都合よく頼めるわけがないでしょ。それこそ、あんたのところの澄子は独身なんだから爺ちゃんを迎えにきたらどうなの」
倫子のいうことは、ああ言えばこう言うで話し合いにならない。
「それじゃ、どうすればいいの」
「爺ちゃんは婆ちゃんをこっちに連れてきたいって」
「爺ちゃんがそう言っているの・・・」
「爺ちゃんが言うから電話しているでしょ」
「爺ちゃんに代わってよ」
「出かけていないわよ」
杏子は、吉次の気持ちが知りたかった。

母の珠子は、環境の良い病院に入り前から見ると一段と元気になった。
「そっちのどこに入れるの」
「これから考えるの。いづれにせよこっちに連れて来るから」
倫子の苛立つ姿が目に見えた。
吉次は倫子の傍にいて杏子とのやり取りを聞いていた。

吉次は、珠子を倫子の傍に置くより杏子の傍に置いたほうが安心であった。しかし、倫子は、母の珠子を強制的にこっちへ連れてくるように吉次に迫った。吉次は自分のこともあり断りきれなかった。
ある日、突然、倫子は杏子に何の相談もなく婦長に直接電話を入れて珠子を華林町へ連れ帰った。
杏子は一度も母の珠子を連れて帰れと言った覚えがない。むしろ、こちらにいたほうが何かと珠子にも杏子にも都合が良かった。病院まで歩いて二〇分と掛からない。毎日足を運ぶ事が出来る。それに洗濯物でも毎日持ち帰ることが出来る。リハビリも付き添いで看てやることができる。食事の介護や清拭もできる。ほぼ一日珠子に話し掛けをすることもできた。それを突然連れて帰ったのだ。
珠子は華林町の病院へ入れられ三ヵ月後には、華林町から更にバスで一時間強は掛かる富貴町の老人施設に入れられた。

杏子のところへ吉次から電話が入った。明日、こちらに来るとのことだ。杏子は吉次の声が弱々しい力の無い声であったのが少し気になった。
風邪でもしいたのかと思い無理をしないように電話を掛けなおそうと思っていたがつい忘れてしまった。
翌日、吉次がやって来た。
吉次は憔悴した顔付でどこか覇気が無くまるで魂が抜けたような感じであった。
「どうしたの。体調が良くないの・・・。無理をしてこなくても良かったのに」
杏子は吉次の顔姿を見て驚いた。
吉次は椅子に腰を下ろしてから溜息を一つしてお茶を入れてくれといった。
「悪い風邪が流行っているから気をつけなきゃ」
お茶を入れてやると吉次はそれを少しずつ啜り喉の奥へと送り込んだ。
「何かあったの」
吉次はそれでも無言であった。
「黙っていては分らないじゃないの」
吉次は少し休ませてくれていいたげな顔をした。杏子は吉次を長椅子に座らせ仰向きに寝かせた。
暫くしてから吉次が話し出した。
「丸裸になった」
吉次は天井に視線を向けながら独り言のように言った。
「何が・・・」
杏子は台所で洗物をしていたがその手を休めた。
「丸裸って・・・」
「倫子にやられた」そう言って深いため息を一つして目を伏せた。
「まさか、家と土地じゃないでしょうね」
杏子はこのように憔悴仕切った吉次の顔をこれまでに見たことが無かった。若いころは気丈夫な人であったが、寄る年波に勝てず今では大人しくなり年々老け込みが早まってゆくように杏子には思えた。
しかし、今まで、このように老け込んだ顔を見たことが無かった。
「その家と土地だ」
杏子は唖然とした。あれだけ倫子に言って聞かせたのにと思うと腹が立った。まさかと思っていたがその感が当たったのだ
「倫子のやつ、金蔵を使って俺を説得した」
吉次は乱暴な言葉を使いはき捨てるように言った。
「従兄弟の金蔵さんを」
吉次は、金蔵から見ると叔父に当たる。吉次の姉の子供だがその姉はすでに亡くなった。
「ああ、そうだ」
「いつのこと:」
「一週間前のことだ」
杏子は吉次の前に椅子を引き目の前に座った。吉次の目は空ろであった。
「爺ちゃん。確りしてよ。どうして倫子の言うことをきいたの」
「俺も考えたが、あんなに責められたらどうしようもなかった」
「どうしようもないって。そんなことで済まされないでしょうに」
土地と家、この財産は、吉次と珠子が生きてゆく上での最後の砦である。
「わかっている:」
吉次の目にうっすらと涙が浮かんでいた。その涙は、倫子に対する悔し涙なのか自分自身の弱さに対するものなのか杏子には計り知れなかった。


吉次は、老いの辛さを痛感したー(22) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]

「爺ちゃん、ここまで来るのは大変だけど、婆ちゃんにせめて月に一度は顔を見せてあげてよ」
「ああ、分かった」
吉次は、いつも返事だけである。
吉次は、77歳になった。
70歳までは頭も足腰もなんとか確りとしていた、それが70を超したころから思う様に身体が動かなくなり物忘れが多くなった。
椅子から腰を上げた途端に自分が今何をしようとして立ち上がったのか分からない。もう一度椅子に腰を下ろして考えてみるが思い出せない。それに何かをしようとしている時に声を掛けられるともう分からなくなる。
俺もずいぶん焼きが回ったものだと吉次はつくづく思う。
「爺ちゃん、行ったり来たりで大変だからこっちに少し居たら」
杏子がいつものように言うと吉次はただ頷くだけだ。
吉次にしてみたら知らない土地で生活することは考えられなかった。何よりも先祖の墓がある。
日本海の風景や町の臭い、それに庄助や菊婆さんや紗枝さんにいつでも会うことができる。杏子のところは、どうも落着かない。やはり、住み慣れた自分の家が一番だと思った。
パチンコ店がバス停で二つ目にあるが今ではパチンコはやめた。
杏子の家からバス停までの間に歩道橋がある。それを渡らなければならない。これが吉次にとって一番辛いことだった。階段の上り下りもそうだが歩道橋を渡るのが怖かった。杏子にその話をしたところ
「何も怖いことなどないでしょう」と簡単に片づけられそれ以来いわないことにした。
華林町には歩道橋などない。
幹線道路に架かっている歩道橋の真ん中あたりに来ると引っ切り無しにバスや大型トラックそれに乗用車などがその橋の下を走っている。下を見ないようにして渡るがどうしても見てしまう。
大型車が歩道橋の下を通ったらその車の振動で歩道橋が揺れる。すると気持ち悪くなる。

それに杏子の家に居てもすることがなく暇をもてあます。プラスチックケースに入った魚針の仕掛け作りの道具をショルダーバックから出してみるが気乗りがしない。
珠子の所に顔を出しても10分と辛抱できずに帰ってくる。三日目になると飽きて「明日、帰る」と言って10時ごろのバスで帰ってゆく。
バスが華林町の近くの岩沼までくるとほっとした気持になる。あと20分ほどで華林町に到着する。バスタミナルから家まで歩く。時間にして15分ほどで家に着く。自分の家が見えてくると張りつめていた心と身体から緊張感が抜ける。しかし、倫子や光一の目が重く圧し掛かって来る。すると気が重くなる。自分の家なのに気が重い。珠子の存在が今になっていかに重たかったか身に沁みて分かる。それにしても自分の不甲斐なさに情けなくなる。身体は歳にしては動くほうだと思っているが気が弱くなった。それに思考力にも自信がなくなった。最近では倫子から「呆けたんじゃないの」とのべつ言われるようになった。
呆けてたまるかと自分に気合を入れるが頭も体も言う事を聞かない。
吉次はつくづく年は争えないと分かっているが倫子には腹が立つ。

母の珠子が元気なころは、杏子が実家へ帰ると倫子が「最近、呆けてしょうがないの」と口癖のように母の珠子に向かって言っていたのを聴いて「歳だから仕方が無いの」と言って聞かせた。
母の珠子は痴呆ではない。単なる加齢による物忘れである。言って聞かせるとそのとおりにしようとした。
杏子の頭に常にあるのは母の珠子の毎日飲む薬の飲み忘れであった。杏子は倫子に「あんたがキチンと管理してやらないと飲み忘れや、二度服用する事もあるから気をつけてね」とお願いをするがそんなこと知るかといった顔をする。その顔を見るたびに薄情な女だと杏子は思った。それに二言目には「呆けた。呆けた」と繰り返す。この言葉に杏子は腹が立った。誰でも歳を重ねると物忘れが多くなる。それを倫子は珠子に向かって一日中「呆けた。呆けた」と繰り返す。それも家の中だけではなく隣近所や知人にも言い触らす。
珠子が入院すると今度は吉次に向けて「呆けた」という言葉を使う様になった。
吉次は、珠子の時にこの言葉を散々聴いていたが今度は俺かと思うと腹の虫が治まらなかった。
(手前も珠子や俺の歳になって見ろ)
(呆けた)という言葉がどれだけ心の中に突き刺さるか、(勝手に呆けているんじゃねえ)と大きな声で倫子を怒鳴り付けてやりたかった。
吉次は、自分がどれだけ歯がゆさを感じているか倫子に分かってほしかった。
誰かに頼らなければ生きて行けない歳になったことは感じるが珠子ほどでない。ある程度自分で出来ることは自分でと思い努力をするがなかなか思うように行かない。
吉次は、老いの辛さを痛感した。

何が悲しいのー(21) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]

「明日、そっちへ行くから」
杏子は特に断る理由もないので「いいわよ」と答えた。
秋風が吹き始めていた。九月も終わろうとしている。木々の枯れ葉が道路に舞っていた。
倫子が顔を出さなくなってから既に二ヶ月が過ぎようとしていた。
「どうした風の吹き回しか倫子が婆ちゃんを見舞いに来るって」
「二ヶ月もご無沙汰で突然くるとは何かありそうだな」
定男は杏子の顔を見て笑った。
翌日、倫子は一〇時半頃に病院へ来た。
杏子は、珠子の腕や足を暖かいタオルで部分清拭をしていた。
倫子は来るなり母を見て
「元気がないじゃない。何か前よりも痩せたみたい」と言って珠子の頭を左手でそっと撫でた。
「前から見たら目はしっかりとしてきたし顔色も良くなったでしょ」
「可哀想に・・・」倫子はそういってハンカチで目頭を押さえた。
杏子は二ヶ月ぶりに顔を出しておいて何も泣くことはないと思った。杏子は腹の中で可笑しさを堪えた。
「何が悲しいの」
倫子は何も言わずに目頭を幾度もハンカチで拭っている。
「婆ちゃん、早く元気になって家に帰ろうね」倫子は優しい声で珠子に声を掛け杏子があてた床ずれ用クッションの位置を変えた。
珠子は寝返りができなく背中全体が赤く爛れていた。そのために時たま寝返りをさせる必要があった。床ずれ用クッションのあて方もただあてるだけではなく背中、足など全体のバランスを考えて体位を変えてやらなければならない。ただ、身体にあてると、かえって患者に苦痛を与える。杏子は毎日病院へ通っていてヘルパーの介護の仕方を見て知っていた。それを真似て珠子の体位を変えてやった。それが気に食わないのか勝手に床ずれ用クッションを移動させた。
杏子は倫子に今更何を言っても始まらないのでそのままにさせておいた。
倫子は病室に入ってきた看護婦に日頃のお世話に礼を述べていた。
倫子は病室に入って来てから帰るまでハンカチを手から離すことなく涙を拭きふき一時間ほどして帰っていった。
杏子は昼食を珠子に食べさせた後に帰ってきた。
夕方、定男が会社から帰って来て
「どうだった」と訊いた。
「ただ泣いて帰っただけ」
定男は苦笑いをした。
「可哀想に、可哀想にだって、自分で面倒を看ないと言っておきながら涙を流しているの。あの態度には呆れたわ」
「何が可哀想なんだ。きちんと病院へ入れているのに」
「当分こないわよ」
杏子の言った通り倫子はそのあと暫く顔を出さなかった。

定男は朝早くに目が覚めた。起きてベランダのカーテンを引くと外は吹雪いていた。
今日は元旦である。年の初めから吹雪きかと思うと何だか暗い気持ちになった。
庭の木々の枝が雪に覆われている。
朝の10時頃に電話が鳴った。雑煮を作っていた杏子がエプロンで手を拭きながら受話器を取った。
「正月にどうして来なかったの」倫子からであった。
「婆ちゃんがいるでしょうに」
「爺ちゃんがいるんだから、実家に一年に一度ぐらい顔を出しても良いんじゃない」
杏子は、何を寝ぼけたことをいっているのかと思った。
「あんた達こそ、婆ちゃんに顔を見せるべきよ。爺ちゃんも来ないしどうなっているの」
正月早々から杏子は嫌な気持ちになった。
「実家は華林町でしょう。こっちに顔を出すのが当たり前でしょう」
倫子が頑として杏子の話を聞こうとしない。
杏子は、「私は、川辺家から小林家の人間になったの。川辺家も大切だけど小林家のほうがもっと大切なの」と言ってやりたかったが
話しの通じる人ではない。適当に話を合わせて電話を切った。
娘の澄子が二階から降りてきた。
「朝から大きな声で何よ」
「倫子よ」
澄子は、ああまたかと言った顔で洗面所へ立った。
「元旦早々のこの時間に電話を入れるなんて少し非常識ね」澄子が歯を磨きながら洗面所の鏡に向かって言った。
「あの人は、いつも非常識な人なの。今始まったじゃないの」
定男が元旦の分厚い新聞の束を玄関の郵便受けから持ってきて政治、スポーツなどと区分けしていた。
杏子は、ちくわ、椎茸などの雑煮の具材に包丁を入れ鍋に入れていた。
ガスコンロに乗った鍋から醤油汁の匂いと一緒に椎茸の独特の香りが部屋中に漂っていた。
その匂いは、元旦でなければのものであった。
新しい年を迎え1月の末に初めて吉次が顔を出した。

倫子の鋭い目がじろりと吉次を見たー(20) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]

吉次がトイレに立った時に菊婆さんが庄助に訊いた。
「庄助、吉爺は大丈夫か」
そう言って人差し指を頭に向けた。
「頭がどうした・・・」
「こっちのほうは確かか」菊婆さんが頻りに自分の頭を指さしている。
「正気かってことか・・・」
「少し呆けたんじゃないか」
「俺は、普通だと思うが・・・」
「金や通帳がねえと言い出したら呆けの始まりでねえか」
「それは、まだ早いべえ」
「早い遅いでねえ。早いのは若くてもなる。お前も酒ばかり飲んでいると呆けるのが早いぞ」
庄助が大声で笑った。
「酒は、関係ねえべえさ」
「庄助、笑ってねえで、吉爺の話しは本当か・・・」
「そうだぁ、吉爺は嘘の言えねえ人だ。長年付き合ってきたがこれと言って変わったところはねえ」
「それなら信じるが・・・それにしても倫子は悪な女だ」
菊婆さんが苦虫を噛み潰したような顔をした。
「まだ、きちんと歩けるし話もできるし人との付き合いでも不都合なところがないのでしょ」紗枝さんが吉次を庇う様な言い方をした。
「そうだよ」庄助の声に力が入った。
「それにしても倫ちゃん、酷いことをするわねえ」
紗枝さんも呆れていた。
窓から西日が差し込んでいた。休憩部屋の中は先ほどまで混雑していた客がいつのまにか帰り疎らになっていた。
吉次が戻ってきた。
「兎に角、母さんのところへ顔を出してやれや。分かったか」
菊婆さんが諭すような言い方をした。
吉次が頷いた。四人は休憩部屋に入る西日に照らされながら日が沈みかけた日本海をその窓から眺めその美しさに見とれていた。
吉次は、珠子が口癖のようにこの場所から見る日本海の夕日が一番綺麗だと言ったことを思い出した。
「まるで、でっかいほおずきのようだ」菊婆さんが曲がった腰に左手をあて痛そうにしながら立って腰を少し伸ばした。
「本当だ。ほおずきの色だ」庄助が手をかざして夕日を見ている。
「吉爺よ。盆の13日は、先祖をきちんと迎えてやったか」
「俺の墓にはまだ誰も入ってねえが、本家の墓にほおずきを持って行った」
「ほおずきは迎え火だ。吉爺のところは、親戚が多いんだぁ」
「ああ、兄弟姉妹が7人もいる。大変だ。しかし、今じゃ、残っているのは俺と兄貴の二人だけだ。あとはみんな死んじまった」
「本家の墓にほおずきを持って行ったか」
「ああ、なんだか知らねえが、昔からの習わしだから持って行った」
「なんだ、ほおずきのいわれを知らねえのか・・・」
「ああ・・・」
「盆の13日は、先祖の霊が迷うことなく自分の家に辿りつけるように門口で迎い火として、あさぎを焚き家に招き入れ仏壇に納まり頂き、坊さんに来てもらう。そしてな、その霊に経を上げて貰う。その時に仏壇にほおずきを飾るんだ。それは提灯の代わりにもなる」
「知らなかったなあ」
吉次が納得したのか頷いていた。
「庄助、知ってたか・・・」
「そこまでは知らねえ、でも北海道では、そこまでしないべ」
「迎い火や送り火を焚いたのは、私の子供のころにあったわ」紗枝さんが言った。
「吉爺のところは、先祖は本州の人だなあ」
菊婆さんは、今でも古くからのしきたりを守り先祖の霊を敬っている吉次家の重さを何となく感じ取った。


 三
吉次は、珠子のところへ行くことにした。倫子がどう言うか。自分の子供に何も遠慮などすることもないが自分の体が思うように動かなくなるとどうしても子供に頼ることになる。
吉次は、若い頃は頑固者で手が早かった。二人の娘を聞き分けが無いと有無も言わせずに平手で叩いたこともある。それが今では娘の機嫌を伺いながら行動をしなければならない。そう思うと吉次はつくづく自分が嫌になった。気が弱くなり若いときのような覇気が無くなった。
「明日、杏子のところへ行ってくる」吉次は思い切って倫子に言ってみた。
「どうしたの、杏子から電話でもあったのかい」
倫子の鋭い目がじろりと吉次をみた。その目は、まるで吉次の心の中を探るかのようであった。吉次は少しうろたえた。
「もう、一ヶ月も行ってねぇ」
一ヶ月という期間に力を入れて言ったせいか倫子も認めざるを得なかった。
「下着は、新しいものを出しておくから取り替えて行きなさい」
「ああ・・」吉次は他人の家に行く分けでもないのにと思ったが、また何だかんだと言われると五月蠅いので倫子の言う通りにした。
倫子は、吉次の面倒を見ているのは自分である。だから下着一枚といえども杏子に言われまいとしてのことである。

「婆ちゃん、爺ちゃんがきたよ」杏子がそういうと
珠子は分かったのか少し頷いた。
「どうだ」吉次が声をかけた。
珠子は目を開け吉次の方に一度目を動かし目をつぶった。
珠子は少しばかり以前と比べて目がしっかりとしてきたように見えた。それだけ、元気を取り戻したのだ。
「前より元気だなあ」
「食事も以前より摂るようになったけどリハビリが巧くいかなくて」
吉次は珠子の顔をじっと見詰めていた。この状態では二度と歩くことはできないだろうと思った。口では「元気になった」と言ったが心の中ではそう思わなかった。死ぬまでこの施設だろうと思った。一度家に連れて帰り珠子が若いときから使っていた鏡台の前に立たせてやりたいと思った。珠子はおしゃれ好きで何時も鏡台の前で季節が変わる度に待ちわびていたかのように洋品店に走り流行のセーターや服を買ってきて鏡台の前でニコニコしながら吉次にどうかしらと目を向ける。吉次は年金暮らしでこう流行を追われては堪ったものじゃない。それでいつも歳を考えろと言って口喧嘩が始まる。
財布は珠子が握っていた。それで気に入った物があれば直ぐ買ってくる。衝動買いが多かった。それで以前、財布を吉次が持つか珠子が持つかで揉めたことがあった。しかし、依然として珠子が握っていた。買ってくる衣服の正札みると安価なものでそれを上手に着こなし生き生きとした表情の珠子の姿を見ていると何となく自分も元気がもらえるように思えた。吉次は、次第に珠子の楽しみがこの程度のおしゃれであれば安い物だと思うようになった。そのためにもその鏡台の前に珠子を立たせてやりたかった。
「リハビリが出来たら歩けるのか」
杏子は首を横に振った。吉次はそうだろうと思った。
珠子の傍にいても何もすることがない。いつものように透明のプラスチックの箱から出した釣り針にテグスを巻いて時間を潰すしかない。杏子の家と病院を一日おきに通い始めた。ある日、吉次が風邪を引いた。それで杏子が吉次を珠子と同じ病院で看て貰った。
そのことを吉次が電話で倫子に話したところ倫子は激怒した。
「何を怒っているの・・・」杏子の耳元にいつもの倫子の甲高い声が響いた。
「なぜ直ぐにこっちへ帰さなかったの」
風邪を引いて少し微熱があるのにそのまま帰すわけに行かない。それにどうして爺ちゃんを病院へ連れて行ったことが悪いのか。杏子には倫子の気持ちが分からなかった。
「熱があるから病院へ連れて行ったのにそれがどうして悪いの」
杏子は腹が立った。
「爺ちゃんは歳だから肺炎にでもなったらどうするの。何時も看てもらっている病院が一番でしょ」
「どうしてもそっちの病院でなければならないの」
倫子は後が続かなかった。
「とにかく爺ちゃんを戻してよ。爺ちゃんそこにいるんでしょ。電話に出してよ」
電話は吉次に替わった。
吉次は倫子に大事ないといいながら明日にでも帰ると言っている。
杏子は、今朝方、吉次を病院で診察して貰ったばかりである。それを明日4時間かけて帰す分けには行かなかった。
杏子が倫子に話をしようとしたとき吉次が電話を切った。
「どうして電話を切ったの」
「向こうから切った」
「明日帰るの」
「ああ、帰る。もう、ここに来て一ヶ月になる」
「何時までいても良いのよ」
「帰らないと倫子、機嫌が悪いから」
「爺ちゃん、しっかりしてよ」
杏子にそう言われても返す言葉がなかった。
吉次は、倫子に自分は面倒を看て貰うことになる。倫子の言うとおりにしていなければならないと思った。
「倫子が面倒を見ないなら私が看るよ」
吉次は何も言わずただ頷いた。

吉次が帰って一週間ほど経ってから倫子から電話があった。


あの大将に女がいたとー(19) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]

「それじゃ最近の話だべ」
庄助が残り少なくなった酒を一滴も溢すまいとして左手を広げ顎下に持ってきて啜っている。
「どこの銀行から移したんだ」
「信金からだ」
吉次が腹の底から怒っているのが分かった。
「信金は本人確認しないのか」
庄助は自分の経験から金融機関はどこも必ず本人確認をする。それなくして勝手に払い出しすることはないと思った。
「なーに、こんな小さな町だ。どこの誰だかみんな知ってるべぇ。うまく話をこしらえたらそれで通るさ」
菊婆さんが顔パスで通るようなことを言った。
庄助はそれを聞いてそれもそうだと思った。
「珠子に頼まれたと言ったらしい」
「窓口は倫子を知ってるべぇ」
菊婆さんは、倫子が病院に勤めている。それで当然倫子の顔を知っている者が多いはずだと思った。
「幾らだ」庄助が小さな声で吉次に訊いた。
「一五〇万」
「定期か・・・」
「ああ、満期の通知が来ていた・・・」
「杏子のところへ行っている間にやられたか」
菊婆さんが何を納得したのか何度も頷いた。
「そうだ」
「吉爺はどうしてわかった」
庄助の声は、酒が入ったせいか声が大きくなり力が入っていた。
「信金に俺が行って手続きしようと思ったら、倫子がきて婆さんが体の調子が悪いので代わりに来たといって、それで金を下ろして行ったと」
「通帳と印鑑を持って行ったらどうしょうもないべぇ」
菊婆さんの目が鋭く光った。
「ああ、それで銀行に移された」
吉次は、信金との取引が長かった。銀行よりも信金のほうが何かと面倒を見てくれるので親近間があった。
「信金に行くまで分からなかったのか」
菊婆さんがタバコに火を付け深く吸い込み口から思い切り煙をはき出した。その煙は四人の周りを漂った。
「ああ・・・、それにしても考えてみたこともねえことだ」
「そりゃそうだ。誰も親の金を勝手に引き出して他に移すとは思いもしないべぇ」
菊婆さんは、吉次のやつれた顔を見て気の毒に思った。
「それにしてもなぜそんなことをしたんだ」
庄助が首をかしげた。
「銀行を移したことを倫ちゃん爺ちゃんに言わなかったの」佐枝さんが訊いた。
「ああ、倫子を問いつめたら銀行から再三再四にわたって預金してくれって言われていたから替えてやったと」
「倫子は、どうも吉爺の財産を全て知っているなぁ」
菊婆さんが鋭い目で吉次に言った。
吉次は、この間、居酒屋「とんこ」で庄助に土地と家屋の話をしたが定期預金の話しはしていない。ここで倫子にすべての財産を見せたことを話していいものか迷った。
「誰でも分かるようなところに印鑑を置いておくからだ」
菊婆さんが吉次を叱った。
「ああ、俺も迂闊だった」
「それにしても親の金を勝手に動かすなんて考えられねえ」
庄助が一合酒の残りを一気に飲み干し瓶の口を手の平に叩き中から出てくる少しばかりの酒を舌で舐めながら
「だから元気がなかったのか」と言った。
庄助は、酒が入った勢いか
「俺が倫子に意見してやろうか」と真面目な顔で言った。
「いや、一度叱ってやった。すべて俺が悪いんだ」
吉次がしんみりと言った。
「印鑑や通帳など財産は今でも同じ場所に置いたままか」菊婆さんが丸くなった背を更に丸めて吉次の顔を覗き込んだ。
「この鞄の中だ」吉次は手元にあるショルダーバックを指さした。
「ああ、それが良い」菊婆さんが頷いた。
「それにしても全財産を持ち歩くなんて危なくない」佐枝さんが心配そうに訊いた。
「どうりで重たそうだと思った」庄助がショルダーバックを持って重さを確かめている。
「仕方ねえべぇ」菊婆さんが残念そうに言った。
「俺みたく何にもねえ~のが一番だ」
庄助は吉次が羨ましかった。
庄助は人が良くて定年退職した後、行きつけの飲み屋の大将に懇願されて五〇〇万円の連帯保証人になったが大将は、サラ金から金を借り金利がかさみにっちもさっちもいかなくなりとうとう店仕舞いをした。庄助が店の玄関の張り紙を見たのは一週間ほどしてからであった。大将の行く先は不明であった。「逃げられた」と気づいたときは、遅かった。その支払いが庄助のところに回った。どうにか完済することができたが庄助にとっては痛手であった。
「まあ、それにしても280万円ほどで済んだ」と胸をなで下ろした。
家の一軒も建てられず息子の悟に世話になっている。特に嫁の憲子には何かにつけて遠慮しなければならない。
菊婆さんが右手の親指と人差し指を丸めて
「そんなことないべぇ。結構持ってるべぇ」
そう言って丸めた指を庄助に見せてにやりと笑った。
「いや、本当だ。退職金も三分の一は保証で消えた」
「保証金以上の金が酒に変わってしまったべさ」
「そんなに使ったと思わねえがいつのまにか消えてしまった」
一合酒の瓶が空であった。飲み足りないのか庄助は先ほどから自動販売機の方をちらちらと見ている。
「息子さんに幾らか上げたの」佐枝さんが言った。
「なーに全部飲んでしまったのよ」菊婆さんが至極当然のようにいった。
「菊婆さんにはまいるな」庄助は大きな声で笑った。
「なんも参ることなかべぇ。本当のことだべぇ」
佐枝さんが自販機の方へ歩いていった。
「庄助は人が良いから騙されるんだ」吉次が菊婆さんに言った。
「だれに騙された・・・」
「栗毛公園のそばにあった居酒屋{海猫}の大将だと」
吉次が庄助の顔をちらっと見た。
「本当の話か」
「嘘も本当もねえ。本当の話だ」
「あの大将に女がいたというでねえか」菊婆さんはなんでも知っている。
「それは知らなかったなぁ」庄助が口をあんぐりと開けたままだ。
「この町の女か・・・」吉次が訊いた。
「いや、浮須町でやはり同じ商売をしている一人もんの女だ」
菊婆さんは情報通である。
大将は庄助に、店をもう少し広げ客数を増やしたい。従業員も雇い女将さんには店の奥で経営全般を仕切ってほしい。それで当座の資金が必要だと言うので連帯保証人になった。しかし、その金が浮須町の女に貢がれていたとはついぞ知らなかった。今から考えると店の工事をした形跡が無い。庄助は、酒を飲むと気が大きくなる。酒の勢いで連帯保証人になった自分につくづく嫌気がさした。
佐枝さんがビールを買ってきて庄助の前に置いた。
「悪いね、佐枝さん」
「酒はやめろ」菊婆さんが言った。
そう言われても好きなものはやめられない。
庄助はビールの蓋を開けて三分の一ほどを一気に飲み干した。
「お前だら水も酒も同じだ」菊婆さんがそう言って庄助の前にピーナッツの袋を差し出した。
庄助はそのピーナッツ袋に手を突っ込み口に放り込みぽりぽりと噛みだした。
「菊婆さんは歯が丈夫なんだなあ。こんな堅いものよく食えるよ」
「小さい時から親に干し鱈ばかり喰わせられたからよ」
「いてえ」
「どうした。舌を噛んだ」
「馬鹿たれや。堅いものは口に入れてからすぐに噛まねえで少し舐めて柔らかくなってから噛むんだ」
「そんな面度くせえことできるか」
佐枝さんが菊婆さんの横で声を出して笑った。
「ところで最近、母さんのところへ行ったか」菊婆さんが吉次に訊いた。
「行ってね」
「どうしてだ」
「あの病気は長く掛かる。俺が行っても何も役にたたねえ。それに杏子の傍に置いているから心配ないべえと思って」
「そんなことなかべえ。夫婦だべえ。顔を見せるだけでも違うべえ」
吉次がにやにや笑っている。
「笑い事でねえ」菊婆さんが語気を強めた。
「分かった」
「本当に分かったものだか」菊婆さんが腹を立てているのが分かった。
「行くわよね」佐枝さんが横から言った。
「俺も行かなきゃならねえと思っているが倫子がうるさくて・・・」
「うるさいって」佐枝さんが身を乗り出した。
「俺が杏子のところに行くと言うと機嫌が悪くなるんだ」
「機嫌が悪くなるってどうしてよ」庄助が訊いた。
「きつくなるなぁ」
「どんな風に」
「まあ、うまくいえねえけど話し方とか態度が・・・」
「なんでだ」庄助は、すきっ腹に酒をいれたせいか酔いのまわりが早く更に声が大きくなった。
「よくはわからねえ」
「お前も歳だから一人で旅さ出すのが危ねえからでねえか」
菊婆さんが言った。
「草間市ぐれえだらまだ大丈夫だ。毎年一年に一回軍隊時代の仲間が集まる会にでるが結構俺よりも年上の者がきている。俺なぞは若いほうだ」
「まあ、心配して言ってくれるんだ。ありがたいじゃねえか」
庄助がそう言いながらピーナッツをしきりに口に運んでいる。
「だからって、母さんのところへ行かねえことにならないべぇ。
なあ、佐枝さん」
「歩けるんだもの。バスに乗ったら終点は草間市だし、それにまだ七六歳でしょ。爺ちゃんだったら大丈夫よ」
「そうだ。吉爺、大丈夫だ。」庄助が力を入れていった。
菊婆さんは、吉次の様子に一つ気になるところがあった。

親にとって子供って何だー(18) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]

「一人で悩んでねえで皆に言ってみろや」
吉次はそれでも黙々と釣り針にテグスを巻いていた。
「母さんの調子はどうだ」
菊婆さんは、くわえタバコの煙が目にしみるのか細い目をさらに細めガラガラ声で訊いた。長いこと飯場で働いて来たせいか言葉が男言葉になる。
「心臓に脳梗塞だ。そう簡単に治らないべ」
菊婆さんは目の前にある大きな灰皿に吸っていたタバコを押し付け揉み消した。それからおもむろにテーブルの上に置いてある色あせた樺色の小さな巾着袋を左手で手前に引き寄せ袋の中に手を突っ込みピーナッツを一粒ずつ取り出してそれを口に運びながら心配そうに吉次を見た。
「悪くなる一方で良くはなんねぇ」吉次はぶっきらぼうに言った。
「リハビリやってるのか」庄助は一合酒をちびりちびりと口に運んでいる。
「なかなか出来ねえ、無理だべ」
珠子には、リハビリは無理だと知っていた。
「まあ、ドンと構えて気長に待つことだ」
菊婆さんのピーナッツを噛む音が聞こえる。
紗枝さんが菊婆さんの横で「そのとおりよ」と言った顔をして頷いた。
庄助は、珠子のことで吉次が悩んでいるとは思わなかった。先日の「とんこ」で聞いた倫子のことだろうと思った。
「倫子のことだべ」
吉次は、初めて顔を上げた。話そうかどうか迷っていたのだ。
「娘はなんにもならねぇ」と、はき捨てるように言った。
「親子喧嘩でもしたのか」菊婆さんが顔をしかめた。
吉次は小さく首を横に振った。
「そんなものじゃねえ」その声は、小さく擦れていた。吉次の小柄な体が更に小さく見えた。
「何があったんだ」菊婆さんが細い目を更に細くして訊いた。
吉次が言うまいかどうしようかと迷っているようだ。
「恥ずかしくて言えねえ」
菊婆さんは、奥歯にピーナッツが挟まったのか右手の人差し指でそれを掻きだそうとしている。ピーナッツは、直ぐに取れた。取れたピーナツを噛みながら
「それぞれの家には人様に言えねえ問題を抱えているものだ。それを他人様が聞いても解決できるものでねえが、話せば少しは気持ちが楽になるべ」
「そうだぁ。腹の中に溜め込んじゃならねえ」
「体に毒よ」紗枝さんが初めて声を出した。吉次のやつれた姿を見て紗枝さんは、あまりの変わりように先ほどから我が身のように心配していた。
「聞くぐれいならできるだ」菊婆さんが吉次の顔を覗き込んだ。
吉次は黙々と手を動かしていた。
「親にとって子供は何だ」
突然のことで三人は互いに顔を見やった。
「・・・」
庄助が
「子供って・・・」
「ああ・・・自分の子供だぁ」
「なに言ってんだがわかんねぇ」庄助が妙な顔をした。
「分からねえならそれで言い」
「自分でこさえた子供だが、その子供の気持ちが良く分からねえということだべ」菊江婆さんが言った。
吉次がそうだと言わんばかりに頷いた。
「どしてだ」庄助が訊いた。
「そう思うこと無いか」
「俺の息子も年増の女と逃げた。何を考えているんだか。親の心子知らずとはこのことだ」
菊婆さんが、寂しそうに言った。
「それならまだ許せるべぇ」吉次がまた手を動かしていた。
「なんでだ」
「そんな生易しいことでねぇ」
吉次は菊婆さんの顔を見ずにいった。
「そんなに難しいのか」
「俺の知らねえうちに珠子の金を他の銀行に勝手に移すか」
「誰が・・・」
三人は、互いに顔を見合わせた。
「もしかしたら、倫子か」庄助が言った。
この間、「居酒屋とんこ」で聞いた話と違っていた。
吉次が頷いた。
「どうしてそんなことを・・・」佐枝さんが驚きの声を上げた。
「それにしても酷いなぁ」庄助の手に思わず力が入った。
「通帳と印鑑の場所を教えているのか」菊婆さんがピーナッツを三つぶ左指で掴むとそれを口に入れた。
「ああ」
「なんで教えたんだ。お前も馬鹿だなぁ。それでいつ頃の話だ」
菊婆さんが眉間に深いしわを寄せた。
「俺が杏子のところへ行っているときだ」

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