倫子の鋭い目がじろりと吉次を見たー(20) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]

吉次がトイレに立った時に菊婆さんが庄助に訊いた。
「庄助、吉爺は大丈夫か」
そう言って人差し指を頭に向けた。
「頭がどうした・・・」
「こっちのほうは確かか」菊婆さんが頻りに自分の頭を指さしている。
「正気かってことか・・・」
「少し呆けたんじゃないか」
「俺は、普通だと思うが・・・」
「金や通帳がねえと言い出したら呆けの始まりでねえか」
「それは、まだ早いべえ」
「早い遅いでねえ。早いのは若くてもなる。お前も酒ばかり飲んでいると呆けるのが早いぞ」
庄助が大声で笑った。
「酒は、関係ねえべえさ」
「庄助、笑ってねえで、吉爺の話しは本当か・・・」
「そうだぁ、吉爺は嘘の言えねえ人だ。長年付き合ってきたがこれと言って変わったところはねえ」
「それなら信じるが・・・それにしても倫子は悪な女だ」
菊婆さんが苦虫を噛み潰したような顔をした。
「まだ、きちんと歩けるし話もできるし人との付き合いでも不都合なところがないのでしょ」紗枝さんが吉次を庇う様な言い方をした。
「そうだよ」庄助の声に力が入った。
「それにしても倫ちゃん、酷いことをするわねえ」
紗枝さんも呆れていた。
窓から西日が差し込んでいた。休憩部屋の中は先ほどまで混雑していた客がいつのまにか帰り疎らになっていた。
吉次が戻ってきた。
「兎に角、母さんのところへ顔を出してやれや。分かったか」
菊婆さんが諭すような言い方をした。
吉次が頷いた。四人は休憩部屋に入る西日に照らされながら日が沈みかけた日本海をその窓から眺めその美しさに見とれていた。
吉次は、珠子が口癖のようにこの場所から見る日本海の夕日が一番綺麗だと言ったことを思い出した。
「まるで、でっかいほおずきのようだ」菊婆さんが曲がった腰に左手をあて痛そうにしながら立って腰を少し伸ばした。
「本当だ。ほおずきの色だ」庄助が手をかざして夕日を見ている。
「吉爺よ。盆の13日は、先祖をきちんと迎えてやったか」
「俺の墓にはまだ誰も入ってねえが、本家の墓にほおずきを持って行った」
「ほおずきは迎え火だ。吉爺のところは、親戚が多いんだぁ」
「ああ、兄弟姉妹が7人もいる。大変だ。しかし、今じゃ、残っているのは俺と兄貴の二人だけだ。あとはみんな死んじまった」
「本家の墓にほおずきを持って行ったか」
「ああ、なんだか知らねえが、昔からの習わしだから持って行った」
「なんだ、ほおずきのいわれを知らねえのか・・・」
「ああ・・・」
「盆の13日は、先祖の霊が迷うことなく自分の家に辿りつけるように門口で迎い火として、あさぎを焚き家に招き入れ仏壇に納まり頂き、坊さんに来てもらう。そしてな、その霊に経を上げて貰う。その時に仏壇にほおずきを飾るんだ。それは提灯の代わりにもなる」
「知らなかったなあ」
吉次が納得したのか頷いていた。
「庄助、知ってたか・・・」
「そこまでは知らねえ、でも北海道では、そこまでしないべ」
「迎い火や送り火を焚いたのは、私の子供のころにあったわ」紗枝さんが言った。
「吉爺のところは、先祖は本州の人だなあ」
菊婆さんは、今でも古くからのしきたりを守り先祖の霊を敬っている吉次家の重さを何となく感じ取った。


 三
吉次は、珠子のところへ行くことにした。倫子がどう言うか。自分の子供に何も遠慮などすることもないが自分の体が思うように動かなくなるとどうしても子供に頼ることになる。
吉次は、若い頃は頑固者で手が早かった。二人の娘を聞き分けが無いと有無も言わせずに平手で叩いたこともある。それが今では娘の機嫌を伺いながら行動をしなければならない。そう思うと吉次はつくづく自分が嫌になった。気が弱くなり若いときのような覇気が無くなった。
「明日、杏子のところへ行ってくる」吉次は思い切って倫子に言ってみた。
「どうしたの、杏子から電話でもあったのかい」
倫子の鋭い目がじろりと吉次をみた。その目は、まるで吉次の心の中を探るかのようであった。吉次は少しうろたえた。
「もう、一ヶ月も行ってねぇ」
一ヶ月という期間に力を入れて言ったせいか倫子も認めざるを得なかった。
「下着は、新しいものを出しておくから取り替えて行きなさい」
「ああ・・」吉次は他人の家に行く分けでもないのにと思ったが、また何だかんだと言われると五月蠅いので倫子の言う通りにした。
倫子は、吉次の面倒を見ているのは自分である。だから下着一枚といえども杏子に言われまいとしてのことである。

「婆ちゃん、爺ちゃんがきたよ」杏子がそういうと
珠子は分かったのか少し頷いた。
「どうだ」吉次が声をかけた。
珠子は目を開け吉次の方に一度目を動かし目をつぶった。
珠子は少しばかり以前と比べて目がしっかりとしてきたように見えた。それだけ、元気を取り戻したのだ。
「前より元気だなあ」
「食事も以前より摂るようになったけどリハビリが巧くいかなくて」
吉次は珠子の顔をじっと見詰めていた。この状態では二度と歩くことはできないだろうと思った。口では「元気になった」と言ったが心の中ではそう思わなかった。死ぬまでこの施設だろうと思った。一度家に連れて帰り珠子が若いときから使っていた鏡台の前に立たせてやりたいと思った。珠子はおしゃれ好きで何時も鏡台の前で季節が変わる度に待ちわびていたかのように洋品店に走り流行のセーターや服を買ってきて鏡台の前でニコニコしながら吉次にどうかしらと目を向ける。吉次は年金暮らしでこう流行を追われては堪ったものじゃない。それでいつも歳を考えろと言って口喧嘩が始まる。
財布は珠子が握っていた。それで気に入った物があれば直ぐ買ってくる。衝動買いが多かった。それで以前、財布を吉次が持つか珠子が持つかで揉めたことがあった。しかし、依然として珠子が握っていた。買ってくる衣服の正札みると安価なものでそれを上手に着こなし生き生きとした表情の珠子の姿を見ていると何となく自分も元気がもらえるように思えた。吉次は、次第に珠子の楽しみがこの程度のおしゃれであれば安い物だと思うようになった。そのためにもその鏡台の前に珠子を立たせてやりたかった。
「リハビリが出来たら歩けるのか」
杏子は首を横に振った。吉次はそうだろうと思った。
珠子の傍にいても何もすることがない。いつものように透明のプラスチックの箱から出した釣り針にテグスを巻いて時間を潰すしかない。杏子の家と病院を一日おきに通い始めた。ある日、吉次が風邪を引いた。それで杏子が吉次を珠子と同じ病院で看て貰った。
そのことを吉次が電話で倫子に話したところ倫子は激怒した。
「何を怒っているの・・・」杏子の耳元にいつもの倫子の甲高い声が響いた。
「なぜ直ぐにこっちへ帰さなかったの」
風邪を引いて少し微熱があるのにそのまま帰すわけに行かない。それにどうして爺ちゃんを病院へ連れて行ったことが悪いのか。杏子には倫子の気持ちが分からなかった。
「熱があるから病院へ連れて行ったのにそれがどうして悪いの」
杏子は腹が立った。
「爺ちゃんは歳だから肺炎にでもなったらどうするの。何時も看てもらっている病院が一番でしょ」
「どうしてもそっちの病院でなければならないの」
倫子は後が続かなかった。
「とにかく爺ちゃんを戻してよ。爺ちゃんそこにいるんでしょ。電話に出してよ」
電話は吉次に替わった。
吉次は倫子に大事ないといいながら明日にでも帰ると言っている。
杏子は、今朝方、吉次を病院で診察して貰ったばかりである。それを明日4時間かけて帰す分けには行かなかった。
杏子が倫子に話をしようとしたとき吉次が電話を切った。
「どうして電話を切ったの」
「向こうから切った」
「明日帰るの」
「ああ、帰る。もう、ここに来て一ヶ月になる」
「何時までいても良いのよ」
「帰らないと倫子、機嫌が悪いから」
「爺ちゃん、しっかりしてよ」
杏子にそう言われても返す言葉がなかった。
吉次は、倫子に自分は面倒を看て貰うことになる。倫子の言うとおりにしていなければならないと思った。
「倫子が面倒を見ないなら私が看るよ」
吉次は何も言わずただ頷いた。

吉次が帰って一週間ほど経ってから倫子から電話があった。


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