何が悲しいのー(21) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]

「明日、そっちへ行くから」
杏子は特に断る理由もないので「いいわよ」と答えた。
秋風が吹き始めていた。九月も終わろうとしている。木々の枯れ葉が道路に舞っていた。
倫子が顔を出さなくなってから既に二ヶ月が過ぎようとしていた。
「どうした風の吹き回しか倫子が婆ちゃんを見舞いに来るって」
「二ヶ月もご無沙汰で突然くるとは何かありそうだな」
定男は杏子の顔を見て笑った。
翌日、倫子は一〇時半頃に病院へ来た。
杏子は、珠子の腕や足を暖かいタオルで部分清拭をしていた。
倫子は来るなり母を見て
「元気がないじゃない。何か前よりも痩せたみたい」と言って珠子の頭を左手でそっと撫でた。
「前から見たら目はしっかりとしてきたし顔色も良くなったでしょ」
「可哀想に・・・」倫子はそういってハンカチで目頭を押さえた。
杏子は二ヶ月ぶりに顔を出しておいて何も泣くことはないと思った。杏子は腹の中で可笑しさを堪えた。
「何が悲しいの」
倫子は何も言わずに目頭を幾度もハンカチで拭っている。
「婆ちゃん、早く元気になって家に帰ろうね」倫子は優しい声で珠子に声を掛け杏子があてた床ずれ用クッションの位置を変えた。
珠子は寝返りができなく背中全体が赤く爛れていた。そのために時たま寝返りをさせる必要があった。床ずれ用クッションのあて方もただあてるだけではなく背中、足など全体のバランスを考えて体位を変えてやらなければならない。ただ、身体にあてると、かえって患者に苦痛を与える。杏子は毎日病院へ通っていてヘルパーの介護の仕方を見て知っていた。それを真似て珠子の体位を変えてやった。それが気に食わないのか勝手に床ずれ用クッションを移動させた。
杏子は倫子に今更何を言っても始まらないのでそのままにさせておいた。
倫子は病室に入ってきた看護婦に日頃のお世話に礼を述べていた。
倫子は病室に入って来てから帰るまでハンカチを手から離すことなく涙を拭きふき一時間ほどして帰っていった。
杏子は昼食を珠子に食べさせた後に帰ってきた。
夕方、定男が会社から帰って来て
「どうだった」と訊いた。
「ただ泣いて帰っただけ」
定男は苦笑いをした。
「可哀想に、可哀想にだって、自分で面倒を看ないと言っておきながら涙を流しているの。あの態度には呆れたわ」
「何が可哀想なんだ。きちんと病院へ入れているのに」
「当分こないわよ」
杏子の言った通り倫子はそのあと暫く顔を出さなかった。

定男は朝早くに目が覚めた。起きてベランダのカーテンを引くと外は吹雪いていた。
今日は元旦である。年の初めから吹雪きかと思うと何だか暗い気持ちになった。
庭の木々の枝が雪に覆われている。
朝の10時頃に電話が鳴った。雑煮を作っていた杏子がエプロンで手を拭きながら受話器を取った。
「正月にどうして来なかったの」倫子からであった。
「婆ちゃんがいるでしょうに」
「爺ちゃんがいるんだから、実家に一年に一度ぐらい顔を出しても良いんじゃない」
杏子は、何を寝ぼけたことをいっているのかと思った。
「あんた達こそ、婆ちゃんに顔を見せるべきよ。爺ちゃんも来ないしどうなっているの」
正月早々から杏子は嫌な気持ちになった。
「実家は華林町でしょう。こっちに顔を出すのが当たり前でしょう」
倫子が頑として杏子の話を聞こうとしない。
杏子は、「私は、川辺家から小林家の人間になったの。川辺家も大切だけど小林家のほうがもっと大切なの」と言ってやりたかったが
話しの通じる人ではない。適当に話を合わせて電話を切った。
娘の澄子が二階から降りてきた。
「朝から大きな声で何よ」
「倫子よ」
澄子は、ああまたかと言った顔で洗面所へ立った。
「元旦早々のこの時間に電話を入れるなんて少し非常識ね」澄子が歯を磨きながら洗面所の鏡に向かって言った。
「あの人は、いつも非常識な人なの。今始まったじゃないの」
定男が元旦の分厚い新聞の束を玄関の郵便受けから持ってきて政治、スポーツなどと区分けしていた。
杏子は、ちくわ、椎茸などの雑煮の具材に包丁を入れ鍋に入れていた。
ガスコンロに乗った鍋から醤油汁の匂いと一緒に椎茸の独特の香りが部屋中に漂っていた。
その匂いは、元旦でなければのものであった。
新しい年を迎え1月の末に初めて吉次が顔を出した。

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