吉次は、老いの辛さを痛感したー(22) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]

「爺ちゃん、ここまで来るのは大変だけど、婆ちゃんにせめて月に一度は顔を見せてあげてよ」
「ああ、分かった」
吉次は、いつも返事だけである。
吉次は、77歳になった。
70歳までは頭も足腰もなんとか確りとしていた、それが70を超したころから思う様に身体が動かなくなり物忘れが多くなった。
椅子から腰を上げた途端に自分が今何をしようとして立ち上がったのか分からない。もう一度椅子に腰を下ろして考えてみるが思い出せない。それに何かをしようとしている時に声を掛けられるともう分からなくなる。
俺もずいぶん焼きが回ったものだと吉次はつくづく思う。
「爺ちゃん、行ったり来たりで大変だからこっちに少し居たら」
杏子がいつものように言うと吉次はただ頷くだけだ。
吉次にしてみたら知らない土地で生活することは考えられなかった。何よりも先祖の墓がある。
日本海の風景や町の臭い、それに庄助や菊婆さんや紗枝さんにいつでも会うことができる。杏子のところは、どうも落着かない。やはり、住み慣れた自分の家が一番だと思った。
パチンコ店がバス停で二つ目にあるが今ではパチンコはやめた。
杏子の家からバス停までの間に歩道橋がある。それを渡らなければならない。これが吉次にとって一番辛いことだった。階段の上り下りもそうだが歩道橋を渡るのが怖かった。杏子にその話をしたところ
「何も怖いことなどないでしょう」と簡単に片づけられそれ以来いわないことにした。
華林町には歩道橋などない。
幹線道路に架かっている歩道橋の真ん中あたりに来ると引っ切り無しにバスや大型トラックそれに乗用車などがその橋の下を走っている。下を見ないようにして渡るがどうしても見てしまう。
大型車が歩道橋の下を通ったらその車の振動で歩道橋が揺れる。すると気持ち悪くなる。

それに杏子の家に居てもすることがなく暇をもてあます。プラスチックケースに入った魚針の仕掛け作りの道具をショルダーバックから出してみるが気乗りがしない。
珠子の所に顔を出しても10分と辛抱できずに帰ってくる。三日目になると飽きて「明日、帰る」と言って10時ごろのバスで帰ってゆく。
バスが華林町の近くの岩沼までくるとほっとした気持になる。あと20分ほどで華林町に到着する。バスタミナルから家まで歩く。時間にして15分ほどで家に着く。自分の家が見えてくると張りつめていた心と身体から緊張感が抜ける。しかし、倫子や光一の目が重く圧し掛かって来る。すると気が重くなる。自分の家なのに気が重い。珠子の存在が今になっていかに重たかったか身に沁みて分かる。それにしても自分の不甲斐なさに情けなくなる。身体は歳にしては動くほうだと思っているが気が弱くなった。それに思考力にも自信がなくなった。最近では倫子から「呆けたんじゃないの」とのべつ言われるようになった。
呆けてたまるかと自分に気合を入れるが頭も体も言う事を聞かない。
吉次はつくづく年は争えないと分かっているが倫子には腹が立つ。

母の珠子が元気なころは、杏子が実家へ帰ると倫子が「最近、呆けてしょうがないの」と口癖のように母の珠子に向かって言っていたのを聴いて「歳だから仕方が無いの」と言って聞かせた。
母の珠子は痴呆ではない。単なる加齢による物忘れである。言って聞かせるとそのとおりにしようとした。
杏子の頭に常にあるのは母の珠子の毎日飲む薬の飲み忘れであった。杏子は倫子に「あんたがキチンと管理してやらないと飲み忘れや、二度服用する事もあるから気をつけてね」とお願いをするがそんなこと知るかといった顔をする。その顔を見るたびに薄情な女だと杏子は思った。それに二言目には「呆けた。呆けた」と繰り返す。この言葉に杏子は腹が立った。誰でも歳を重ねると物忘れが多くなる。それを倫子は珠子に向かって一日中「呆けた。呆けた」と繰り返す。それも家の中だけではなく隣近所や知人にも言い触らす。
珠子が入院すると今度は吉次に向けて「呆けた」という言葉を使う様になった。
吉次は、珠子の時にこの言葉を散々聴いていたが今度は俺かと思うと腹の虫が治まらなかった。
(手前も珠子や俺の歳になって見ろ)
(呆けた)という言葉がどれだけ心の中に突き刺さるか、(勝手に呆けているんじゃねえ)と大きな声で倫子を怒鳴り付けてやりたかった。
吉次は、自分がどれだけ歯がゆさを感じているか倫子に分かってほしかった。
誰かに頼らなければ生きて行けない歳になったことは感じるが珠子ほどでない。ある程度自分で出来ることは自分でと思い努力をするがなかなか思うように行かない。
吉次は、老いの辛さを痛感した。

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