亡魂ー3親指の先が痛むのか

キネが、先ほどから浴衣を縫っている。近所から頼まれたものだ。若い頃から手先が器用で、キネの母が近くの裁縫の先生に御願いして習わせた。
腕が良く近所でも評判になった。仕事は、潤沢にあったが、最近は、年のせいか、目が悪くなり浴衣に限って縫っている。
時々、手を休め幸三に話し掛ける。
「丁度今頃だったよ。覚えてないかい」
幸三は、思い出せなかった。
「覚えてないな・・・」
爪を切る音がする。
「どうして、今頃そんなことを思い出したの」
幸三が、爪を切り損ない,
「あっ」と声を上げた。
「この間から、なんかさ、知らないけど、そのことが気になって仕方がないの」
「夢でも見たのか」
幸三は、親指の先が痛むのか顔を顰めながら何度も押さえている。
「夢ならいいけどさ、なんか、頭から離れないの」
「そのうち忘れるさ」
キネが、口元を少し歪め、白地に赤いバラの入った浴衣を両手で左右に引っ張り、手を動かした。

5月に入ると遠くの小高い丘に、白木蓮の花が咲き誇る。その景色は、まるで残雪が残っているかのような錯覚を覚える。
キネが、時々、手を休め、遠い目をしてその景色に目を遣っている。

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亡魂ー2 ライラックの咲くころに

「そう、あんたが、確か、小学校の5年生だったよ」
「なんだったかな・・・」
幸三が、目を細め遠くを見るような眼差しで庭のライラックの木に目を遣った。
枝には、薄紫色の花が、まるでたわわに実ったブドウの房のようにぶら下がり、それが今にも枝から落ちそうになっている。
少し開いた掃き出し窓から甘い香りが、ほのかに漂ってくる。
幸三は、大きなくしゃみを一つした。
「くそ、いやな季節だ」
朝夕の寒暖の差は、幾分和らいだが、それでも日によって風の冷たさが違う。
幸三は、毎年ライラックの花が咲くころになると決まって、鼻炎に掛かる。
これまで、風邪だと思い、市販の感冒薬を買って服用していたが、一向に効かなかった。熱もなく、ただ、くしゃみと鼻水が止まらず、それに涙が出る。それで、ある日、病院へ行って診てもらったら、花粉症だといわれた。それも白樺花粉だといわれた。
幸三は、そういわれてもピンとこなかった。この症状は、毎年、決まってライラックの花が咲くころに始まる。
それで、これは、ライラックのあの強い匂のせいだと思っていた。
ところが、白樺の花粉だという。そういわれても、幸三は今一つしっくりとこなかった。
いや、この症状は、ライラックのせいだ。(そうでなければ、寒暖の差によるものだ)と勝手に自分で思っている。
ライラックは、死んだ父が植えたもので、既に10年以上は経っている。

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亡魂ー1 雨上がり

目を覚ますと、天井付けのカーテンの隙間から、明かりが、静かに入っている。
その明かりは、深い青色で、真っ白な天井にぴったりと張りついている。しばらく、その様子をじっと見ていると徐々に色を変え始めた。まるで生きているかのようだ。だが、その明かりも時間が経つにつれて、深い青色から白へそして普段の黄色になった。
昨夜、激しく降り続いていた雨も上がったようだ。
幸三は、この雨が、気掛かりで、昨夜は、何度も目を覚ました。
ここ数年、近くの権瓶川が、毎年氾濫するようになり、床下に水が入るようになった。
幸三は、ベッドから出てカーテンを開けた。窓の下に目を遣った。ところどころ窪んだ地面に雨水が溜まっている。床下にまで来ていないようだ。
空を見上げると雲間から青空が顔を出している。
(今日は、晴れだ)
幸三は、安堵の表情を浮かべ、トイレに立った。その途中で縁側から庭を見た。
ライラックの花が、雨に洗われたせいだろうか、いつもより鮮やかに見える。
つい先日まで、硬い冬芽を付けていたと思ったら、いつの間にか、芽吹き、今は満開である。

幸三が、縁側にどっかと腰を下ろし目の前に新聞紙を広げ、そこで足の爪を切っている。
「あの二人は、行けたのかね」
背後から声がした。母のキネである。
「二人って・・・」
「ほら、あの二人さ・・・」
キネがくけ台に布の端を留め、左手で布を引っ張りながら、右手を動かしている。
「だから、あの二人って誰だ・・・」
「お父さんが生きている頃にさ、ほら、あったでしょ」
「何のことだ・・・」
「私も、よくは分からないけどね」
キネが、少し残念そうにいった。
幸三が、体を半分ほど回してキネの顔を見た。
最近、キネの様子が少し変だ。テレビを見ていても、そのテレビの内容と全く関係のないことを突然いって一人で笑っているときがある。
それで、「どうした」と訊き返し、よくよく聞いてみると全く関係のないことを言っている訳でもなさそうだ。それで、最近はそのままにしている。
幸三が首を傾げると
「ほら、あんたがさ、たしか10歳ぐらいだったよ」
幸三が思いだせないでいる。
「俺が10歳のころか・・・」

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