吉次の目に涙がうっすらとー(23) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]


母の珠子が杏子のもとにいたのは、四年と三か月ほどであった。その間、倫子は来るたびに涙して帰っていった。
四年という歳月は、あっという間に過ぎて去った。
吉次は、傘寿を迎えた。母の珠子は、77歳となった。
久さしぶりに倫子から電話があった。
「分かっているの。爺ちゃん今年80歳よ」
杏子は、母の珠子の歳を数えていると父の吉次が80歳になったことぐらいは知っていた。
「傘寿のお祝いでもするの」
「そうじゃなくて。爺ちゃん歳だし、あんたの所まで行くのはもう無理だというの」
「しょっちゅう来るのは難しいと思うけど、光一さんの車で、たまに顔をだしたらどうなの」
「家の旦那も忙しくて、仕事が仕事だから疲れがたまっていてそんな遠いところまで運転できないでしょう」
「和夫か園子に頼めないの」
「子供たちは、それぞれ生活があるから都合よく頼めるわけがないでしょ。それこそ、あんたのところの澄子は独身なんだから爺ちゃんを迎えにきたらどうなの」
倫子のいうことは、ああ言えばこう言うで話し合いにならない。
「それじゃ、どうすればいいの」
「爺ちゃんは婆ちゃんをこっちに連れてきたいって」
「爺ちゃんがそう言っているの・・・」
「爺ちゃんが言うから電話しているでしょ」
「爺ちゃんに代わってよ」
「出かけていないわよ」
杏子は、吉次の気持ちが知りたかった。

母の珠子は、環境の良い病院に入り前から見ると一段と元気になった。
「そっちのどこに入れるの」
「これから考えるの。いづれにせよこっちに連れて来るから」
倫子の苛立つ姿が目に見えた。
吉次は倫子の傍にいて杏子とのやり取りを聞いていた。

吉次は、珠子を倫子の傍に置くより杏子の傍に置いたほうが安心であった。しかし、倫子は、母の珠子を強制的にこっちへ連れてくるように吉次に迫った。吉次は自分のこともあり断りきれなかった。
ある日、突然、倫子は杏子に何の相談もなく婦長に直接電話を入れて珠子を華林町へ連れ帰った。
杏子は一度も母の珠子を連れて帰れと言った覚えがない。むしろ、こちらにいたほうが何かと珠子にも杏子にも都合が良かった。病院まで歩いて二〇分と掛からない。毎日足を運ぶ事が出来る。それに洗濯物でも毎日持ち帰ることが出来る。リハビリも付き添いで看てやることができる。食事の介護や清拭もできる。ほぼ一日珠子に話し掛けをすることもできた。それを突然連れて帰ったのだ。
珠子は華林町の病院へ入れられ三ヵ月後には、華林町から更にバスで一時間強は掛かる富貴町の老人施設に入れられた。

杏子のところへ吉次から電話が入った。明日、こちらに来るとのことだ。杏子は吉次の声が弱々しい力の無い声であったのが少し気になった。
風邪でもしいたのかと思い無理をしないように電話を掛けなおそうと思っていたがつい忘れてしまった。
翌日、吉次がやって来た。
吉次は憔悴した顔付でどこか覇気が無くまるで魂が抜けたような感じであった。
「どうしたの。体調が良くないの・・・。無理をしてこなくても良かったのに」
杏子は吉次の顔姿を見て驚いた。
吉次は椅子に腰を下ろしてから溜息を一つしてお茶を入れてくれといった。
「悪い風邪が流行っているから気をつけなきゃ」
お茶を入れてやると吉次はそれを少しずつ啜り喉の奥へと送り込んだ。
「何かあったの」
吉次はそれでも無言であった。
「黙っていては分らないじゃないの」
吉次は少し休ませてくれていいたげな顔をした。杏子は吉次を長椅子に座らせ仰向きに寝かせた。
暫くしてから吉次が話し出した。
「丸裸になった」
吉次は天井に視線を向けながら独り言のように言った。
「何が・・・」
杏子は台所で洗物をしていたがその手を休めた。
「丸裸って・・・」
「倫子にやられた」そう言って深いため息を一つして目を伏せた。
「まさか、家と土地じゃないでしょうね」
杏子はこのように憔悴仕切った吉次の顔をこれまでに見たことが無かった。若いころは気丈夫な人であったが、寄る年波に勝てず今では大人しくなり年々老け込みが早まってゆくように杏子には思えた。
しかし、今まで、このように老け込んだ顔を見たことが無かった。
「その家と土地だ」
杏子は唖然とした。あれだけ倫子に言って聞かせたのにと思うと腹が立った。まさかと思っていたがその感が当たったのだ
「倫子のやつ、金蔵を使って俺を説得した」
吉次は乱暴な言葉を使いはき捨てるように言った。
「従兄弟の金蔵さんを」
吉次は、金蔵から見ると叔父に当たる。吉次の姉の子供だがその姉はすでに亡くなった。
「ああ、そうだ」
「いつのこと:」
「一週間前のことだ」
杏子は吉次の前に椅子を引き目の前に座った。吉次の目は空ろであった。
「爺ちゃん。確りしてよ。どうして倫子の言うことをきいたの」
「俺も考えたが、あんなに責められたらどうしようもなかった」
「どうしようもないって。そんなことで済まされないでしょうに」
土地と家、この財産は、吉次と珠子が生きてゆく上での最後の砦である。
「わかっている:」
吉次の目にうっすらと涙が浮かんでいた。その涙は、倫子に対する悔し涙なのか自分自身の弱さに対するものなのか杏子には計り知れなかった。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。