唇と手が小刻みに震えていたー(25) [現代小説ー灯篭花(ほうずき)]

「お前らが共稼ぎ出来たのは、俺や婆さんがいたからだろう。それに子供の面倒をみたのも俺たちだ」
「爺ちゃん、そのぐらいのこと私たちで幾らでも出来たわよ」
「出来たらなぜ俺たちと一緒になった」
「爺ちゃんたちの将来のことを考えて一緒になったでしょう」
吉次は、目の前にある焼酎の入ったコップを倫子に投げつけてやりたかった。
吉次は倫子の腹のうちは見えていた。最初から二人は、結婚しても暫くの間、共働きをしなければ生活できない。
子供が生まれても面倒をみる者がいない。
それなら早めに同居をして面倒を看てもらった方が得と判断してのことだ。珠子はそれを見抜いていた。一度は、同居することに反対したが孫の顔を見てからその情にほだされ祖母として無視するわけにもいかず承諾したのだ。
「叔父さんの気持ちわからないでもないが、80歳だ。それに婆ちゃんもあんな状態だし,杏ちゃんも婆さんの面倒を看ないと言うから連れて来たんだ。倫ちゃんがすべてを背負うことになったんだ。」
「杏子が婆さんの面倒を看ないと言ったのか。倫子、本当か・・・」
倫子は、鋭い目で吉次の顔を見ながら
「杏子は、向こうの親の面倒を看なければならないでしょう」
吉次もそのことは分かっている。だが、杏子の口から珠子の面倒を看ないといったことを聞いたことがない。
倫子は、金蔵に嘘をついたなと思った。
「嘘をつくな」
吉次は大きな声で倫子を怒鳴りつけた。
「嘘じゃないわよ」
金蔵が仲裁に入った。
「叔父さん、いずれは倫ちゃん達の世話になるんだ。そのあたりを良く考えて見てくれや」
「お前が、どうして我々の話に入るんだ」
「倫ちゃんに頼まれたんで」
「馬鹿もの・・・」
仲裁に入った金蔵がえらいとばっちりをくった。

吉次は珠子の顔が浮かんだ。これ以上話し合うことはないと思い腰を上げた。
「どこへゆくの」倫子がヒステリックに怒鳴った。
「帰る」吉次はそれだけ言って玄関をでようとした。
「爺ちゃん、婆さんの面倒は看ないからね」
吉次はドアを思い切り閉めた。頭が混乱していた。

表通りへでると人通りの少なくなった歩道をぼんやりとした街路灯の明かりが路上を照れしていた。吉次の足は自然と港の近くの居酒屋「とんこ」へ向いていた。突然自動車のブレーキの音がして大きな声がした。
「馬鹿野郎。どこ見てる」
交差点の信号が赤であった。それを知らずに渡ろうとした。もう少しで左手からきたダンプに轢かれそうになった。吉次は「はっ」と
我に返った。心臓が激しく鼓動していた。その鼓動は暫く続いていた。
気が付くと居酒屋「とんこ」の前に立っていた。暖簾を分けて中へ入ると客はまばらであった。「吉爺」と声をかけた男がいた。
庄助であった。
「どうした。一人で珍しいな」
「ああ:」それ以上の言葉が出なかった。
庄助の横に腰を下ろした。
「酒か:」
庄助がカウンターの中の大将に大きな声で言った。
「銚子一本」酒に強い庄助が珍しく酔っているようだ。
「あいよ」かみさんが返事をした。
「どうした。珍しいな」
「今そこで車に轢かれそうになった」
「あぶねえなぁ」
「飲んできたのか:」
「飲んでねぇ」
「ぬる燗だよ」かみさんが銚子とイカの塩辛の突きだしを吉次の前に置いた。
庄助が吉次の盃に酒を注ぎ込んだ。
「そこの交差点か」
「ああ」
吉次が口元にその盃を運んだ時、唇と手が小刻みに震えていた。

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