溝鼠ー⑭最大の原因は他にある [現代小説ー灯篭花(ほおずき)]

昨日、道男は、帰り際にナースステーションに寄った。看護師から一応危険な状態から脱したことを告げられた。しかし、高齢である。いつ容態が変わるか分からないと告げられた。その話を聞いて道男は出かけて来た。

母が目を開けようとしていた。左目に目やにが着いている。それで目を明けられない。眼瞼をピクピクと動かしている。道男は、テッシュでその目ヤニを拭き取った。
「これでいいべ。目を開けろ」
大きな声を出した。命令口調である。定男は、道男のそのぞんざいな言葉遣いに呆れた。
勝子は、母の耳元に口を寄せ大きな声でいった。
「お母さんだよ。来てるよ。目を開けて」といった。
定男は、その言葉を聞いて勝子に嫌悪を感じた。
(お母さんか・・・)いつの間に母のお母さんになったのだ。遠慮がちな母は、恐らく、元気なころから勝子に気を使い一緒に生活をしてきたのだろう。それで勝子を“おかあさん”と呼んだのだろうと思った。もともとこの家は、母の家である。今の家を新築したときの資金は、母が出したものだ。大きな顔をして住めるはずだ。それなのに自分の息子の嫁を「おかあさん」と呼ばなければならない。「勝子さん」で十分だろうと思った。定男が一緒に生活していたころ、母は、杏子を「おかあさん」と呼んだことなどない。「杏子さんまたはあんた」であった。
定男は、普段から人の悪口を言わない母がぽつりと一言漏らした言葉を思い出した。
正月になると毎年勝子の兄弟姉妹や父母が道男の家に集まって正月を祝う。二階に母が居ることを知っていながら、挨拶一つなく、階下からの楽しそうな笑い声が聞こえていたと。母は、その楽しそうな声を聴きながら一人で寂しく正月を祝っていたと。
勝子の言葉は、さも自分自身は、生活を犠牲にし、これまで献身的に母の面倒を看てきた。だから今後も続けて母の面倒は自分自身が看て行くとの強い意志表示をしているかのように思えた。
定男は二人を見て益々不愉快になった。
ここで大きな声で道男に言いたい事を言ってやろうと思ったが親父の顔が目に浮かんだ。(二人しかいない兄弟だ。喧嘩をするな)父の言葉が定男の袖を引っ張る。定男は、喉元まで出掛かった怒りをぐっと抑え胸に仕舞い込んだ。
平静を装い道男に話しかけた。
「お袋は、昨夜、あたかも傍に誰かが居てその人に話しかけているかのようだったと。それも一晩中話しかけていたようだ。時々、笑い声がしたと。看護師が話していたよ」
定男は、先ほどナースステーションに顔を出した時に夜勤の看護師から聞いた話だ。
道男は、ニヤニヤ笑っていた。勝子が横からいった。
「時々、今野さん、今野さんというの。お兄さん、知ってる」
「さあ・・・」と答えたが
定男は、聴いたことのある名前だと思った。
「どうだべ、婆さんの面倒、一年交代か二年交代で看ないか」
道男が突然いった。
定男は、道男の腹の中を探った。脳血管症である。母の面倒を看るのが嫌になったのか。それとも介護疲れか。それにしても母が寝込んだのは、今回が初めてである。今までは、Dサービスに通っていた。母の面倒といっても二階で生活していた。食事の上げ下げが嫌になったのか。認知症特有の物忘れなどに嫌気をさしたのか。定男は、いろいろ考えてみた。確かに認知症患者を看るのは大変なことだ。だが、徘徊するわけでもない。ただ、道男たちが話したことは、買い物に出かけると果物などの食料品を持ちきれないほど買って来る。それを全部食べてしまう。当然、腹の具合いを悪くし病院通いをする。それで困るという。買い物に出かけるときには、沢山買わないようにと注意をするが買ってくる。それで、あるときから月に3千を箪笥の小引き出しに入れて置くようにしたという。母は、それが無いといって騒ぐという。この話は、最初にこの病院へ来たときに勝子が杏子に一生懸命に説明していたのを定男が耳にした。
今考えるとなぜ勝子があれまで一所懸命になって杏子に話していたのか不思議でならなかったが、定男は、なんとなく分かりかけてきた。
母の自立度は3である。定男は、杏子の父親や母親を看てきたのでその認知症の自立の度合いは知っている。
高齢になると誰でも出る症状である。
90歳を過ぎている。物忘れの症状が出ないほうが不思議である。しかし、物忘ればかりではない。母を苦しめた最大の原因は他にあることを知っていた。そのことが定男の頭から離れなかった。

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