溝鼠―⑬物干し竿の端に [現代小説ー灯篭花ほおずき)]

翌日、行ってみるとすでに点滴が始まっていた。看護師が体温と血圧、それに脈拍を測り部屋を出て行った。
ベッドサイドに行き母の顔を見た。特に変わったところもなさそうだ。中腰になり母の顔を覗き込んでいると腰が痛みだした。椅子を探すと部屋の隅に折りたたみ椅子が置いてあった。それを出してきて母の前に座った。暫く母の顔を見ていた。なぜか自然と涙が込み上げてきた。
小学生のころを思いだした。
母によく叱られたものだ。これといって別に悪いこと事をしたわけではない。暗くならないうちに帰るように言われているが遊びに夢中になると時間を忘れてしまう。気が付くとあたりは、黄昏時を過ぎ友達の顔も見えない時間になっている。慌てて家に帰る。それでよく「いつまで遊んでいるの」と母に叱られたものだ。これが始終である。
夏休みになると近くの浜に泳ぎに行く。友達が大勢いる。母は危険だから泳ぎに行くなというが母の目を盗んで行く。日本手ぬぐいを一本腰のバンドに差し込み浜へ行く。裸になりズボンからバンドを抜いてそれを腰に締めそこへ日本手ぬぐいを差し込み褌代わりにして泳ぐ。子供である。褌などあってもなくてもいいようなものだが、知った女の子も泳ぎに来る。そのために日本手ぬぐいが必要になる。
時間の経つのも忘れて泳ぐ。気が付くと日が沈み掛けている。慌てて衣服を着て走って家に帰る。
家に帰るとそっと裏口に回り物干し竿の端に日本手ぬぐいを掛ける。するとそれを見て「また、泳いできた」と言って母に怒鳴られる。
子供を思っての母の気持である。その時の母の顔を思い出すと自然と涙が込み上げてきた。心のなかで定男は、「怒られたな。母さんに」と声をかけた。お袋は目を瞑っているが元気なら恐らく「うふっ」と声を出して笑ったであろう。
父と母に連れられ地方を回った。それぞれの町での思い出がよみがえってきた。母の怒った顔、笑った顔などその時々のことが頭に浮かんだ。部屋の中は、静かだった。角部屋で最後尾の部屋である。そのせいか廊下を通る看護師やヘルパーの足音などは聞こえない。遠くの方から時々笑い声が聴こえるぐらいだ。
誰かこちらへ歩いてくる。道男と勝子の声がした。
「来てたのか。早えな」
道男は、そういいながら母に近づき顔を覗き込み母の額に手を当てぞんざいに髪の毛を撫でた。
「目を開けろ。目を。俺だ」と大きな声で言った。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。