溝鼠ー⑯一時的な感情が先走り [現代小説ー灯篭花(ほおずき)]

末娘の佳代子は、仕事に出かけた。よほどのことがない限り店を休むことなどない。居間の石油ストーブの炎が高く上がっていた。暖かくなった部屋で道男と勝子が向かい合い酒を飲んでいた。風が出てきたようだ。窓ガラスに雪を吹き付けていた。
道男の顔が真っ赤になっている。道男は、血圧が高い。毎月病院通いをしている。時々、病院へ行くのを忘れることがある。最近は、それが顕著になった。薬の袋を開けると薬がごっそりと残っている。薬は毒薬だ。飲まないで済むものならそれに越したことがない。しかし、季節の変わり目には、必ず体に変調を来たす。それで薬は手放せないでいる。
勝子が食事の後に必ず「薬は、飲んだの」と訊いてくれたら有難いのだがそれがない。勝子も忘れている。道男が体の変調を訴えて初めて薬を服用することになる。
道男は、酒が回り体が温まったのか着ていたカーキー色のデニムのジャケットを一枚脱いだ。
「少し、言い過ぎたかい」
勝子が焼酎のレモン割を飲みながら道男の顔色を伺った。定男に言った言葉を気にしているようだ。
道男は、含み笑いをしながらビールを飲んでいた。勝子の話を聞きながらテレビの娯楽番組を見ている。
「ああ、あれか。もう少し言ってやってもいかったべや」
道男は、好きなマグロのトロを濃い口醤油にどっぷりと浸して一切れ口に入れ旨そうに喰った。
「怒鳴られると思った」
「なぜ・・・」
「三十年といったから・・・」
「気がついたか」
「何十年になるだろうか・・・」勝子が指を数えている
「たしか佳代子が成人式の年だったはずだわ」
「14年前か」勝子がそういってペロッと舌を出した。
「今頃気がついたか、なあに気の小さい男だ。心配いれねえ。でっかい声でいってやったら小さくなる男だ。強気でいけや」
コップに入ったビールを半分ほど一気に飲んだ。
「このビール旨いな。さっき買ったビールか」
「この間、お父さんと一緒に行って買ったしょ。丸橋で。あの時、安く売っていたドイツだかフランスだか忘れたけど外国のビールでしょ」
「まだ、あったのか」
「一本だけね」
道男も勝子も晩酌は忘れずにする。勝子は、朝の新聞に入る折込み広告をいの一番に見る。勝子にとって、新聞は、折込み広告を見るために購読しているようなものだ。食料品や酒などの特売日には、いくら遠くても車で買いに出かける。買った酒は、車庫の中に置いた古い冷蔵庫に入れておく。銘柄には拘らない。余は飲んで気分が爽快になればいい。
「今度、広告が入ったら、気をつけて見ておくは」
道男は、テレビを見るのと喰うことに一所懸命である。
「それにしてもお兄さん、何も言わなかったね」
「言える筈ねえべや。今まで婆さんほっておいてよ」
道男は、冷ややかな目で勝子を見た。
勝子は、道男の目を見ることが出来なかった。
道男は、残ったコップのビールを一気に空けた。
「日本酒にするか・・・、冷でいいぞ。ネギ味噌を作ってくれ」
勝子が台所の床下の納戸から長ネギを取り出し皮をむき水洗いをした。それを10センチほどの間隔に切り、小皿の上に乗せ味噌を皿の端に少し添えて道男の前に出した。
道男は、そのネギに味噌を少しつけ口に入れた。ネギの辛味が口の中に広がり鼻腔を通って鼻先までその辛さが伝わった。
道男は、コップに入った酒を一口含み口の中で回してグイと飲み込んだ。
傍で勝子が「辛いっしょ」と訊いた。
「ああ、辛いが、これが最高だ」
この辛さがなんともいえないのだ。酔いかけた脳細胞を基に戻してくれるようだ。酒の肴にしては、いたってシンプルだが、枡酒の角に塩を盛って飲むよりはましだと思っている。それになんといっても日本酒に合う肴だと思っている。
勝子は、毎晩、二人で酒を酌み交わす。酔った勢いで道男に一度訊いてみたいことがあった。しかし、どうも言い出しにくく二十数年間ずるずると引きずってきた事がある。
モトに尋ねようと思ったがこちらのほうも本当のことを言わないであろう。すると誰に尋ねるべきか考えあぐねていたが、このたび定男と会う機会に恵まれた。それで直接訊いてみようと思っていた。
それが一時的な感情が先走り定男に聞きづらくなった。

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