溝鼠ー⑩吐き捨てるように言った [現代小説ー灯篭花ほおずき)]

定男は、母の横顔が何度も思いだされ昨夜は眠れなかった。
先ほどから整理タンスの上の目覚まし時計を何回も見ていた。朝の3時を少し回った頃からトイレに幾度も立った。ベッドからいつ抜け出そうかと考えていた。あまり早く起きると杏子に迷惑が掛かる。それで適当な時間になるまで、ベッドの中でじっと我慢をしていた。5時になった。ベッドを抜け出し居間の石油ストーブに電源を入れテレビをつけた。ニュースが流れていた。いつもなら通販の宣伝をしている時間帯であるが今日はどのチャンネルも雪害の状況を伝えている。
雪は、今日になっても降り続いていた。飛行機や列車など公共交通機関が寸断され各地で止まっていた。玄関へ行き新聞受けから朝刊を引いた。ひんやりとした冷たい感触が手に伝わった。居間に戻り新聞を広げると解けた雪で新聞の端が濡れていた。新聞では、孤立している集落もある。それに臨時休校した学校が殆どである。
定男は、車の手配を早めにしなければと思った。
杏子が仕切り戸を開けた。
「早いのね」
「ああ、・・・今日は、少し早めに出かけるよ」
「あら、今日も降っているの。嫌ね」
杏子は、テレビの雪害状況を見て渋い顔をした。それから台所へ行きコップ一杯の水を一気に飲み干した。
杏子は、昨夜は十分に眠ったようだ。
疲れていたのか杏子の鼾は、一晩中部屋の中に響き渡っていた。
「今日は、早めに車の手配をしなきゃならないわね」
「ああ、頼む。今日は、おれ一人で行くよ。何かあったら電話をするから」
昨日の様子では、母が急に亡くなるような状況ではなかった。ただ、S状結腸の手術をしただけである。何も心配することはないだろうと思った。
杏子は、余裕をみて車を7時半に呼んだ。タクシーは時間通りに来なかった。30分の余裕を見てくれと言われそれで待った。
車の渋滞で普通なら30分ほどのところ一時間ほど掛かって病院に着いた。
道男夫婦が来ていた。
定男が部屋に入ると道男が部屋を出て行こうとした。勝子が
「あんた、どこへ行くのさ」と少し大きな声で訊いた。
「詰所だ。昨日の先生が来てないか見てくる」
勝子は、道男の後について部屋を出て行った。部屋を出たところで道男が
「久しぶりだべや、積もる話もあるべ」
道男の言い方は、刺々しく投げやりな言い方であった。定男は、その言い方に不審を抱いた。
母の傍へ定男は行った。ベッドサイドから母の顔を見た。髪は白髪で薄くなっていた。ベッドの名札に94歳と記載されている。十年前の母は、まだ髪は黒かった。あの時は、染めていたのだろうか。母は目を瞑っていた。母の傍に膝を落とした。そして話しかけた。部屋は個室である。定男のほかに誰もいなかった。「お袋」と声を掛けようとしたが胸が詰まり言葉にならなかった。
「母さん」という言葉が出てきた。小さい頃から使い慣れた言葉である。
「かあさん」と言葉を発した時に定男は子供に戻っていた。母に甘えていた頃の子供になっていた。込み上げるものを抑えることができなかった。両目から頬を伝って流れた。
ただ、ただ母に詫びるしかない。
「母さん、ごめんよ」と繰り返し何度も母に同じことを言った。
「許してくれる」と訊くと何度目かに母が頷いた。定男は、さらに込み上げる涙を抑えることができなかった。
「ありがとう。かあさん」と言葉にならない声で母に言った。
定男は、母の手を握った。母が軽く握り返してくれた。
その手の力は、赤子をそっと抱くようなふんわりとした感じであった。
小さい頃、母に手を引かれて歩いたころの母の手に似ていた。それは、慈愛に満ち溢れたあの時の手に似ていた。
定男は、母と言葉を交わしたいと思った。これまで抱いてきた母への思いが一気に吹き飛んだ。母との一体感で幸せであった。
道男が部屋に入ってきた。
「あのな、ちょっと部屋を出るべ。本人は、分かるから、ここでは、話せねえ」道男が小さな声で言って定男を談話室へ連れ出した。
談話室には、常連なのか昨日のメンバーがテレビを観ていた。
「昨夜、婆さん危篤状態になってよ。それで呼ばれて、俺は、来てみたんだが医者の話だと大腸がんだそうだ。齢だし手術は難しいって。持って数日だと」
昨日の話では、S状結腸の手術の話であった。それが大腸がんだという。
定男は、理解できなかった。昨日、大腸がんの話など一切出なかった。
「それでよ、俺これから寺へ行って相談してくる」
定男は、唖然とした。
「でも、俺の見たところでは、直ぐに亡くなるような状態ではないぞ」
定男がそう話すと道男が目を剥き今にも食いつきそうな顔をして言った。
「お前に何が分かる。専門家でもあるまいし」
大きな声で語気を強め吐き捨てるように言った。
定男は、道男のその剣幕に驚いた。何か狐に摘ままれたような気持になった。定男の腹の中は煮えくり返った。定男は、病み上がりである。未だ体調は戻っていない。その為に道男に言い返す力なぞなかった。
久しぶりに会った弟であるが、このような無礼な人間になっているとは思ってもみなかった。兄弟だからこそ他人よりも礼儀を弁えなければならない。それがこの態度である。定男は、不愉快だった。

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