溝鼠ー⑪「帰る・・・。帰ろうね」と [現代小説ー灯篭花ほおずき)]

道男は一方的に話をするとそそくさと部屋を出て行った。勝子が遅れまいとしてその後を追った。
定男は、道男の話しが理解できなかった。「大腸がん」この話は、突然今日になって出た話だ。昨日の手術の結果では、がんの話など全くなかった。病院側でも大腸を60センチほど切除したといったが大腸がんであるとは言っていない。
それを言わなかったのはなぜなのか不思議であった。高齢者のがんは、進行が遅いと世間ではいわれている。

面会謝絶でもない。緊急性による酸素吸入をしているわけでもない。看護師やヘルパーが出入りしている。先ほどから母の様子を見ているが直ちに亡くなるとは、到底思えない。定男は、道男にまんまと担がれたと思った。
定男は、部屋に戻った。母は、目を瞑っていた。看護師が点滴の準備をしていた。
「母の容態は、重いのでしょうか」
定男は、恐る恐る訊いてみた。
「今のところは、落ち着いていますよ」とほほ笑みながら看護師は言った。
それを聞いた定男は、その通りだと思った。
道男が言った菩提寺の住職との打ち合わせは虚だろうと思った。
定男は、母の傍にしばらく座っていた。母の手を握ってみた。母の温かい手のぬくもりが伝わってきた。
部屋は、南向きの部屋であった。窓から外を見ると病院全体は、コの字型になっている。その角部屋で目の前に病棟が見えるだけだ。窓から下を覗くとテラスなのかその上に雪が積もっていた。静かな部屋だが道路が見えない。そのせいか実に殺風景な感じがした。母の腕に点滴をした看護師が部屋を出て行った。
定男は、母が未だ目を開けていないことに気が付いた。母の顔を覗き込んだ。
「かあさん、起きている」と訊いてみた。
返答がない。定男は再度少し大きめな声で母に言った。
「かあさん、目を開けて」と。すると母が目を開けた。
まるで梅干しの種のような小さな目をしていた。子供の頃の母の目は、大きく睨まれたら観念しなければならないほどの鋭い眼力があった。その目は、まるで梅干しの種のように変わっていた。
「定男、定男だよ。定男」とゆっくりと話すと母は分かったのか、初めて「定男」と言った。「帰る・・・。帰ろうね」と定男にいった。
母は、この病院へ入る前は、G介護施設に入っていた。二年前から入所していた。
「母さんは病気だよ。だからこの病院へ入っているの。分かる」というと目を瞑り黙りこんだ。
母は家に帰りたいのだと思った。
「どこか痛いとこない」と訊くと
「痛くない」とはっきりと否定した。母の気持ちの中には、「帰る」ことしか頭の中に無いようだ。
これだけ会話ができるなら申し分ないと思った。「寺の住職と打ち合わせ」か。ふざけたことを言う奴だと定男は思った。
「母さん、大丈夫。頑張れ」
励ましの言葉を掛けたが、心の中で、このまま母をこの病院に置くべきかどうか迷っていた。母は帰りたいといっている。つれて帰るべきか。いずれにしても明日は寺の住職がどうなったか道男に訊いてみようと思った。



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