溝鼠ー23楽は苦の種、苦は楽の種 [現代小説ー灯篭花ほおずき)]

モトに認知症らしき症状が現れたのは、はっきりしない。医者は、症状から老人性脳血管症だといった。

ある日、モトは、買い物に出掛けるので支度をして、いつも整理箪笥の上に置いてある財布を持って出ようとしたらないことに気がついた。モトは、テーブルの下やテレビ台の上などを捜したがない。階下に下りて勝子に財布がないが知らないかと訊いた。勝子が知っているわけがない。道男は、外で庭仕事をしていたが勝子に呼ばれて3人で二階へ上がり財布を部屋中探したことがある。その時、勝子は、押入れを開けようとして襖の取っ手に手を掛けたところ、モトが眼の色を変えて「あっ、そこは開けないで」と大きな声でいった。勝子は、慌てて手を引っ込めた。恐らくモトの大切なものが入っているのだろう。死んだ夫の形見とか手紙や写真など他人には知られたくない若い頃の思い出の品などが仕舞ってあるのだろうと思った。そのほかに勝子があちこち探したところ箪笥の小引出しの中に封筒と正絹ちりめんの袱紗との間に財布が挟まって入っていたことがあった。
道男は、モトが今まで財布が無いといって騒いだことがなかったことに気付いた。道男も勝子も認知症については、新聞や雑誌などで多少は知っていた。
道男と勝子が酒を飲みながら話しをしていた。
「婆さん、もうろくたかったんじゃねえか」
「もうろくったって・・・買い物にも行っているしさ、病院も銀行もちゃんと一人で行ってるしょ。」
「今幾つだ。85か」
勝子がいつものように指を折りながら
「87だわ。今年の誕生日が来てね」
「もうろくたかるのも仕方がねえか」
道男は、長く伸びたスルメの腕を一本歯で毟りその腕を口に銜え噛んでいる。噛み終わるとビールを飲む。それを何回か繰り返している。
「昔の年寄りだったらとっくに死んでるよね」
勝子が道男の前に座り焼酎の水割りを飲んでいる。
「親が長生きするのは、嬉しいことだが半面なんか複雑だな」
道男が意味ありげに笑った。
道男は、定男のことを思い出した。
兄貴の癖に俺に婆さんの面倒を看させ「うんともすんともいって来ない。あの馬鹿野郎が」
勝子には、言わないが心の中でそう思っていた。
「二階へ飯を運んだか」
道男は、勝子をちらりと見た。
「ああ、今日は、未だ作っていないけど食べるのかな」
勝子が煩わしそうにいった。
「食うべや・・・」
道男は、腹立たしそうにいった。
「そうじゃなくてさ、自分で作るときもあるからさ」
勝子が慌てていった。
「訊いてみれよ」
勝子が椅子から腰を上げ左の腕で唇を拭いながら階段上がり口まで行き二階に向かって大きな声でいった。
「お母さん、今日の晩御飯自分で作るかい、それともこっちで作ろうか」
すると木製のドアの内からモトの声がした。
「今日は頼むよ」
モトは、ありったけの声でいった。
「何がいいの・・・」
勝子が大きな声で問い返す。
「軽いもの・・・そばでいいよ」
勝子は、決して二階へ上がろうとはしない。二階までの勾配が急なためいつも下から声を掛ける。一番下の佳代子が勝子と体形がそっくりだといわれている。ずんぐりむっくり系でまるでビール樽のような体形をしている。それで二階へ上がるのが億劫なのだ。
「蕎麦だってさ」勝子が面倒臭そうにいった。台所へ行き食器棚の引き出しを開けた。
「少しあるわ。一回分ほど。大丈夫だわ」勝子は、道男に聴こえるようにいった。
道男の前に座り目の前にあるコップのビールを飲んだ。
「何か食べるかい」
テーブルの上には空になった皿が数枚置いてあった。今朝方焼いた鯵の干物の残りにキンピラごぼう、それにニシン漬を出したが全て道男が平らげたのだ。
「ウインナーソーセージなかったか。あらびきの」
普通のウインナーソーセージではない。手作りのジャンボソーセージで香辛料の効いたものである。
「二本ほど焼けや」
道男は、ビールから日本酒に変えて飲み始めた。
「それにしても、お兄さんたち電話一つ寄こさないね」
勝子がそういって枝豆を口に放り込んだ。
「いいじゃねえか。そのほうがこっちもやりやすいべ」
「何が・・・」
勝子は、意味が分からなかった。
「楽は苦の種、苦は楽の種って言うじゃねえか」
「それがどうしたのさ」勝子には、分からなかった。
「何でもいいけどさ、お母さんを注意して看てないと駄目だね。佳代子に言っておくわ」
「蕎麦、早く作れよ。俺、酒飲めねえだろう」
出来た食事は、道男が二階へ運ぶ。

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