溝鼠ー210仏壇に線香の一本でも [現代小説ー灯篭花(ほおずき)]

列車の振動が心地よかった。どのぐらい走っただろうか、いつの間にか眠ってしまった。車内が蒸し暑い。久仁子が、車窓から見える景色を眺めながら着ているパープル色したカーデガンのボタンを外した。母の顔が目に浮かんだ。あれでよかったのだろうか。
車窓からは、真っ白な大地が見える。その景色をぼんやりと眺めながら考えていた。
到着駅、鶴見町は、釧路からさらに列車で一時間ほど掛かる。林業の町で雪深い町だ。帰ると長男夫婦が待っている。
定男と杏子が一緒に駅まで来て見送ってくれた。
母に会えたが、何かしっくりしない。あれでよかったのだろうか。
もっと母が確りしているうちに、会っていろいろと話をしたかった。
母は、自分の名前を呼んでくれた。
弱弱しい声で「久仁子…久仁子」と二度自分の名前を呼んでくれた。嬉しかった。
二度目に行ったときには、眠っていて声を掛けられなかった。
母とは、それっきりだ。
それで許してもらえたのだろうか。もっと、大きな声で叱って欲しかった。
悔やんでも仕方がない。会うのが遅かったのだ。
そのことが、久仁子の心の中に蟠りとして残っている。

定男の家には3日ほど世話になった。
実家に寄って仏壇に線香の一本でもと思ったが、道男が許してくれなかった。
定男のところで2泊させて貰った。
特に急いで帰えらなければならないこともなかったが、日数が増えるにつれ厭な思いが増える。定男には、悪いが、あとのことは、お願がして早々に帰ろことにした。

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